渡邉達也の「真贋 尾形乾山の見極め」

「佐野乾山」を追い続けてきた研究家の名著

第4章 陶法について



第4章 陶法について

乾山は絵具、釉薬に関する伝書を数冊残しているが、その外に手控(雑記)にも、使用上の工夫について書いている。しかし、その内容については釉薬の表現が異なり、なかなか実体の判断が難しいようである。乾山釉薬の権威者田賀井秀夫氏(東京工業大学名誉教授)は、乾山の伝書「陶磁製方」の楽焼釉薬について、旧名を現代語に直し解説されているが、中には成分の解明も難しく、乾山と同様の作品は制作が不可能とのことである。
ただ科学的にはX線分析機によって元素成分の確認は可能だが、年代測定となると二百年程度の経過ぐらいでは、誤差も多く特定は無理という。また木越邦彦氏(学習院大学名誉教授)も同様の見解を示されていて傾聴すべき発言である。
確かに科学測定は、真贋に対してのその一助とはなるにしても、勿論万能ではないから決定的な判断とはならない。所詮芸術性の問題は、人間の審美眼に頼る外なく、熱処理される陶磁器にいたっては、その感がなおさらである。考えてみれば、乾山作品にも(佐野乾山に関して:HP作成者補足)に科学的な検討をとの要望が、強要に近い程あったが、では過去において真贋問題となった陶磁器や国公立及び民間所蔵の国宝、重要美術品などの指定と、それにともなう研究過程において、少なくとも科学的な検討処置をしてきたか、たとえば国立文化財研究所などは、名称からして最も適任の機関なのだが、おそらくしていない筈である。永仁瓶子が真贋問題として取り上げられた時、位相差顕微鏡とX線分析機が絶大な力を発揮したとのことであるが、この場合は、陶芸家の加藤唐九郎氏が私の作ったものだと名乗り出たから解決したの
ではなかったか。(中略)


乾山は作陶に際して、最も留意したのが素地の面であった。絵や書が如何に美しく表現できるか、それは紙や絹に描かれるのと全く同じ効果を望む画家としての乾山であったからなのである。したがって描く対象には筆勢の強弱や絵具の濃淡、厚さの加減など細心の注意を払う。書をみると黒色も紙上を思わせるような濃淡、掠れ、長文などの墨継ぎは自然で絶妙の手腕をみせる。また、流麗な線描にいたっては入神の技といってよい。このような描画の気配りは、画家として書家としての本能のなせる技なのであって、職人芸にはないものだ。(中略)
それは一言で言えば、素地の肌を描き易くすることなのであったが、素地作りは画家の場合も同様であって、特に日本画家は紙や絹などに行う「どうさ引き」(膠と明礬の水溶液)も吸収を調整する役目で書き易くなるし、「胡粉引き」や「雲母引き」なども、土台(ファンデーション)作りでは一脈合い通じるものがある。それは従来から行われていた「化粧掛け」で、化粧土(白土)を塗り素地を被覆する方法であったが、化粧掛けも素焼の前の粘土成形(自然乾燥後)と素焼後と二通りあり、佐野では注文が多いこともあって入谷窯の土と素地の既製品を多用したことと、助手の五三郎と丹治の成形によるものの場合で、乾山の成形は少ないといえる。(中略) しかし、乾山の場合は吸いこみが少なくて描き易い。だが筆を途中で止めることや、描き直しが不可能、総て一筆描きでもたつきは許されない絵作りを、また漢詩や文章の場合も同様に進めてゆかねばならず、(藤田)嗣治の洋画のようにやり直しは許されないから、乾山の作品はこの一事を考えただけでも、心技入神といってよい。


乾山の化粧土(白土)は、京都や他所の白土、白石を使用してみたが、大方は効果が悪く、結果的には豊後国赤岩の白土が最適であるといっている。この創意工夫によって、乾山陶画の真骨頂を発揮することになった。化粧掛けには、白土液に漬ける場合と手塗りの方法があり、前記したように素地の条件が異なることなどが関連して、意外に難しい一過程の仕事で、作品を決定的にする重要な鍵を握ったものである。
佐野における作陶では、助手の殿木五三郎下山丹治に素地の成形と指示し作らせているから、化粧掛けもさせたことであろう。乾山と親しくしていた壬生の松大尽こと本陣の松本庄兵衛勝富の作った花入は、素人の成形故か或は温度との関わりもあってか、化粧掛けもうまくゆかず、白土の剥離があり、娘の誕生祝にと乾山が描いた「けしの花」と銘に、その効果の半減しているのをみると、如何に素地と白土の関わりが難しいかを知らされる。素人の素地作りと専門家の場合との違いが、これほど異なるものである。


また、黒色も非常に美しい漆黒の発色で、書画共に黒の効果は絶妙の美しさだ。時には濃淡の表現を使い分ける水墨の如き非凡さは他にその例をみない。(中略) 
この報道と同時に、いち早く贋作説を表明したのは日本陶磁協会会長の梅沢彦太郎氏などの関係者一同であり、それは正気の沙汰とは思えぬほどの発言といえた。その理由の一つをあげてみると、黒絵具は「大正黒」で現在使用されているものだという。つまり一部に緑、黄の色を呈しているから、間違いなく現代の贋作だと極めつけたのである。
この黒色について、専門家の重要な証言があるので次に記してみる。発見の報道がエスカレートして、社会問題にまで発展し始めた翌38年の11月11日、蒐集家の森川勇氏が、佐野乾山作品を5,6点持参し、宇都宮市の栃木会館において、栃木新聞社主催の一般公開「佐野乾山問題に関する座談会」で、検討のため資料として観覧に供してくれた。
この席上に座談会出席者として、京都工芸指導所技官・陶芸家吉竹栄二郎氏の「大正黒」について発言記録があるので紹介してみよう。
「新聞で乾山の黒は大正黒であるということを聞い
ておりまして、一応、大正黒でこういう数種の薬を使ってやってみたのでありますが、大正黒というものは市販されているもので、その調合の内容はわかりませんけれど一応、私たち専門家として酸化クローム、鉄、若干のコバルト、この三つのものが組み合わされて加焼され粉砕されて絵の具にされておるということが言えるのであります。それを低火度の顔料の下に書きますと加焼されておりながらその性質を失って本体を現す。クロームはこの釉薬の下では、濃いところでは黒に見えますけれども、薄いところでは緑を呈し、黄色いぼかしが出てくる。そういうものが乾山にない。二色の黒を使っている乾山の黒の中に青く出ているのを大正黒と間違っているんじゃないかと思います。乾山の黒にはぼかしがはいっていない。骨書きは骨書きではっきりし、青は青ではっきり出ている。(後略)」


乾山の使用した黒色を「大正黒」として、否定者たちは贋作説の決め手としたが、専門技官の吉竹栄二郎氏による以上のような見解で全く問題にならなかった。私も職業がら顔料について関心があり、森川勇氏の蒐集で問題化した後に、石塚青我氏が事実考証の段階で発見した佐野乾山を含め百点以上確認したが、黒色の部分にボケた緑や黄の発色は全くなかった。また昭和37年の真贋問題とは関わりなく、独自に光琳・乾山を蒐集してきた住友慎一氏の佐野乾山にも、そのような現象を呈する作品は一つもないことを、ここで記しておかねばならない。(中略)
石塚青我
氏と私は二人共画家であり、絵具には一応の知識もあり、彼は日本画家で顔料に詳しく、
私も父が日本画家でもあったから、油絵具の外に顔料にも環境的に知っていたし、楽焼の低火度焼成には薪焚の経験があるので、前記の黒絵具が「大正黒」として、緑から黄色を呈する酸化クロームの変化があるのかどうか、念入りにこれらの作品について調べてみたが、その発色は全く見られず、美しい黒色を呈しているだけであった。なお、私も呉須(酸化コバルト)を主体に他のものを加えて黒絵具を作ったこともあったから、この「大正黒」説は贋作説者たちの捏造で、全く根拠のないものと判断することができた。(中略)


ところが、2月10日の栃木新聞に乾山展(昭和39年1月に宇都宮市の東武デパートで開催された:HP作成者注)の反響として賛否両論の二者による記事が掲載された。否定者は足利市大町488の石川雅章氏(日本陶磁協会足利支部)で「ボケ乾山を追放せよ」、肯定者は鹿沼市石橋町の太田浜二郎氏で、「魅せられて連日参観」とのタイトルを揚げ感想を述べている。私は真贋の見分け方から、”ボケ乾山を追放せよ”とひらきなおった石川雅章氏の論拠を抽出してみるが、なぜこのような発言を平気でいえるのか、とその精神状態に辟易し、戸惑いを覚えたものであった。石川氏は
「座談会(前記の公開座談会のこと)では吉竹栄二郎氏が
、大正黒という新しい合成ウワグスリでは黒のまわりが緑や黄色のボカシになるが、佐野乾山にはそういうのはありません−といっているので、私ははて先年白木屋で見た時のとは違うが、と不審の思いにつられて行ってみた。会場に入ると、私は自分の目が色盲になったのかとばかり驚いた。茶わんやハチの口を黒ウワグスリで塗りまわしたあたり、あれこそクローム・グリーンのボカシでなくて何でしょう。ボケ乾山だ。吉竹さんよくいってくれました。あれで座談会は大収穫をあげたことになります。会場のパンフレットをお持ちの方は、吉竹さんの説明を読んでから、目をつむって、もう一度あなたの目撃した実物の印象を思い起こして下さい。もう、ことの真相に自主的な判断を下すことができるでしょう」
と、はからずも佐野乾山の黒絵具を、贋作説者たちが「大正黒」と主張するので、吉竹栄二郎氏が専門家の立場から、座談会において作品を目の前にその違いを分析説明したのだったが、石川氏は会場の作品を見て、自分の目が色盲になったのかとばかり驚いたとは、私の方がこれは一体どうしたことだろうと、石川氏以上に驚いたものだが、こともあろうに楽焼の専門家で研究家でもある吉竹技官に石塚氏と私の三人が調査しても、緑黄色など微塵もでていないのである。公器である新聞にこういう決定的な表現で書かれると、全く事情を知らない人は、ああそうかと疑わずに信じてしまう場合もなきにしもあらず、で真に恐ろしい。もっとも、そのへんのところを考えての発言なのであろうし、石川氏自身日本陶磁協会に属する足利地区代表の美術商だが、ことの真実を歪曲させねばならないほど、肩入れが必要だったのであろう。その後、石川雅章氏とは同新聞で乾山の手控について度々論戦を交えたが、貴重な紙面を提供してくれた栃木新聞社は、その当時の実状と真実を、後世に伝えてくれる役割を果たしたことで今でも感謝している。


なお、佐野乾山の陶法には、特に乾山が考案した下絵付(従来行われてきた上絵付に対して、素焼きの化粧掛けをした上に絵付をし、その上に白色の透明釉で全体を被覆、乾燥後焼成すると、透明釉が溶けてガラス状となり絵や書が姿を現す)の技法を駆使して、乾山の生涯における集大成ともいうべき、色絵陶器を低火度焼成の楽焼で、芸術として他の追随を許さない陶画を創ったことは、芸術の一分野としての工芸という領域を出て、陶器を素材に絵画を表現するにあったのである。勿論そこには絵画のために一体となる漢詩文の書も重要な役割を担っていた。このような発想は、やはり乾山が画家であることから生まれたことで、まして化粧掛けの上に顔料で描くことは、日本画の技法上、修練を積んでいることから自家薬籠中のものであったといえる。
一部の陶芸家の中には、筆が走りすぎるという見方をした人がいるが、それは当り前なのだ。むしろ筆勢がないのがおかしいので、すべてよどみなく、緩急や強弱も自在、どのような形や面にも、見事な構成で絵画にデザインに書にと完全な気配りで、一気呵成に表現した手腕は、天才ならではの筆勢である。乾山の描く対象は、あらゆるものに興味をもって手控のスケッチに、そして陶画にとその主題を見事に表現しているところが、いわゆる一つ覚えの職人芸と異なる所以であり、描く対象によって静寂なものもあり、また一見すると粗雑で乱暴気味にみえる絵画や書がある。
しかし、これはなげやりで描いたものではなく、内容に応じて描きわけたり、数多く描かねばならなかったやむにやまれぬ事情があったからで、これを知るのも乾山を理解することで重要なのだ。乾山とて気分も乗らない時に、無理強いされて描かなければならなかった時もあったろうし、後から後から注文があって、勝手な依頼者のため気の休まる暇もなく、つい我慢できず手控中に、「なかなかに風になびかぬ柳あり」(壬生の記)と、書いているほどだから、その心情が理解されよう。





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