佐野乾山物語 三杉隆敏著「真贋ものがたり」
(貿易陶磁器の大家が見た佐野乾山)
当時の時代背景を含めて専門家の見た佐野乾山の記述が興味深いです。
尾形乾山
*まず三杉氏は、佐野乾山が本物であるとの前提で書かれています。
ここでは偽物と思われていたのもが本物であったというめずらしい話をしよう。 江戸時代中期、尾形乾山(1663〜1743)は京都の呉服商の雁金屋の三男として生まれている。その兄光琳は画家として名高く、二人による合作品もある。二人とも日本の他の画家、焼物匠とは異なった装飾性のあるデザインをしたのは、屏風や掛物の上に描く絵というよりは、呉服商という家業、着物の柄から深く影響を受けているからだと指摘すると、おそらくなるほどとうなずいて下さる方もあるかと思う。 乾山は当初、京都の鳴滝に窯を持っていたが、江戸の上野寛永寺、日光輪王寺門跡になられた公寛法親王に声をかけられ、69歳の時江戸に行き、さらに元文二年(1737年)栃木県佐野の地にでかけた。乾山が佐野まで旅をしたのが明らかになったのは1942年(昭和17年)の頃で、太平洋戦争もそろそろ激しくなりだした時期である。その後敗戦となり、数少ない研究家以外はあまりさらなる調査をする者もなかった。 |
私が見た佐野乾山
*ここの記述が一番重要かと思います。氏が佐野乾山をどう感じたかを見て下さい。
私もちょうどその頃東京の京橋に店を持ち、『芸術新潮』の取材などを受けておられた山崎重久氏という人を良く知っており、彼の所でかなりの数のいわゆる「佐野乾山」の角平皿や碗その他を見せられた。なぜ山崎氏の店にあんなにたくさんあったのかなどまったく知らないし、彼も先年亡くなられたので今ではいろいろ聞くこともできないが、私たちが知っているスタンダードな乾山とは異なったグループのものであった。だが、色彩感覚も洗練されており、偽物として乾山のものを模写するのであればもっといじけた感じになりがちなのであるが、非常に自由奔放な一種の力のあるものであった。 山崎さんははじめ黙って私に見せるので、 「これ本当に乾山? これが例の佐野乾山? 元気いいね」 などど言った覚えがあり、彼も 「うん、とってもきれいだろう」 と答えたのを覚えている。 大丸の展覧会も見に行ったが、なにしろ乾山は初代のもの以後でも二代、三代もあるし、これらを絶賛したバーナード・リーチ氏だって七代乾山を名のることを許された方である(六代乾山にリーチは富本憲吉氏とともに陶芸をならっている)。しかも乾山とサインのあるものは世の中にかなりの数があり、もちろん偽物もたくさん作られている。私は初代乾山でなくとも何代目かのものであろう、と判断した。ただ大丸展の中にはどうも偽物くさいと思った物もいく点かあった。 |
*佐野乾山と言われているものが全部真作であるはずがありません(これはスタンダードな乾山でも同様)ので、氏の「大丸展の中にはどうも偽物くさいと思った物もいく点かあった。」との感想は当然かと思います。
さらなる追跡調査
ところが一般には偽物であるという評価が定まっていたのに対し、いやあれは本物である、とさらに調査を続けていた人たちがおられた。今から約10年前、1985年(昭和60年)の6月号の『目の眼』という月刊美術誌に、「あの佐野乾山を二十数年追い求めた執念と新事実」というタイトルの記事が出た。私は中国の磁器、それも染付けを追っているので、日本人でありながらあまり日本の焼物にこだわらない。だから正直てっきりあれら一括は偽物であるということで話の決着がついているのだと思っていた。 そこで、まだあの佐野乾山にこだわり、むしかえしているのか、と思ったのであるが、その特集号は実に興味深いものであった。松崎昭一(当時の記者)の今までの経緯の報告、そして石塚青我氏(画家)、水尾比呂志氏(美術史家・武蔵野美術大学教授)、住友慎一氏(医学博士、光琳・乾山関係の著書多数あり)らの会談を松崎氏が司会をしておられる記事を読むと、「そうだったのか」という、なんだか土俵の上で押しに押された力士が最後にうっちゃりで勝った相撲をみるような思いがした。まさに先の章でも触れた「オールウウェイズ・アンサー・ノット・オンリー・ワン」である。 少し私なりの考えも含めて新しい資料および三氏の話の内容をだどり、概要を記すこととしよう。 |
その後の調査の行方
*ご自分の批評を含めて「無責任な印象批評的なもの」と反省を含めて書かれている所は、さすが第一人者と感じます。
そのようないきさつがあった後であるにもかかわらず、と言うよりもそれ故に、石塚、水尾、住友、松崎の各氏がそれぞれの方法で佐野乾山を白から洗いなおしておられたというのは、まさに本当の研究、編年調査というものはこいうものであるのか、という感銘を受ける。また手控というものがちゃんとあったことが真贋論争に対して大きな柱となったと言えると思う。 なお永仁の壺の事件を一つのモチーフとして小説家によるさまざまな作品化があったが、佐野乾山の場合も多くの有名人たちがこの事件をもとにそれぞれの作品を発表している。川端康成氏は完全な偽物といかなくとも”限りなく黒に近い灰色”と記され、松本清張氏は「泥の中の佐野乾山」と題し、これらの作品はおそらく現地の弟子がつくったものではなかろうかという主旨の文章を『芸術新潮』に発表している。 一方先述の岡本太郎氏は、たとえ現代作の贋物であってもいいものはいいではないか、と発言された。また水尾先生は「乾山研究会」を作り、美術出版社の大下正男さんのところから出版するべく準備を進め、「佐野」ではなく、「野州」乾山と呼ぶべきだと地名の上からおっしゃっていた。ところが出版元の大下さんが突然航空機事故で亡くなられ、その完成はお流れとなってしまった。 住友先生は、肯定論者の故青柳瑞穂先生に感化を受け、佐野乾山に関しては白紙でのぞむべきだと調査された。医学者として理論的な研究態度は立派だと感服する。また松崎氏は特に手控と小西文書をはじめとする資料との比較などをきっちりとし、しかもあらゆる可能性から考察しておられ、当時の私を含めての無責任な印象批評的なものとは異なっていると言える。 さらに石塚氏は、江戸の入谷の久作の所から素焼き取り寄せたことから乾山の作品に異なった材料のあったことを指摘し、また陶芸に詳しい用人の殿木五三郎や乾山を手助けした陶工の下山丹治を佐野に呼んだことから、乾山が佐野を去った後も彼らによって乾山スタイルの物が作られたであろうと言われている。これは非常にうがった見方で、焼物は陶芸作家一人で作るものだと考えがちな日本人の欠落点をよくついて見ておられる。日本人の一般的な真贋観には、私など中国工芸の分業制作に慣れてものを考えつけているのとは異なり、土、成形、焼成、絵付けなどすべて一人でやってこそ本物であるという、一種の憧れがあるとも言えそうなのである。 なおコレクターでもあり小説家でもある細野耕三氏が、『尾形光琳二代目・乾山』を世界日報社から1991年に出版しておられるが、この作品には乾山の人となり、また揺れ動く彼の心、そして当時の社会背景などが記されている。氏は先述の佐野乾山肯定論者たちに会われ、彼らの研究が非常に筋が通っているのに感心し、それらを下地としてその本の出版を決心したとのことであった。 しかし、最終的に私の頭には、雅味のある乾山グループと佐野での作はどこか異なった一括であるという考えが浮かぶ。画家たちにも、年をとるとともにより渋い物を描くようになる人たちと、その反対に明るいはんなりとした画風へと変化する人がいる。また、その制作年代の明らかな近代の画家でも、年代により少しずつ画風が異なっていくのがよく知られているが、極端な例としてピカソの青の時代の写実的な絵と中・後期の抽象風の絵を、画家しての変化の記録をを知らずに単に「ピカソの絵だ」として示されたら、誰しもそのどちらかを偽物と言うのではないだろうか。したがって乾山の一生における人間的な変化、また画風に置ける変化、そしてさらなる問題は、先にも触れたされにとってキャンパスとなる焼物自体が持つ態度の違い、また筆、顔料の違いのことをも考えると、おそらく一品一品の審偽はそれほど簡単に言えるものではないのではないだろうか。私自身も手にとって調査したわけではないので、それから先のことについては言葉を慎むべきだろう。そして、その上で今度は科学的な分析も必要となる。 これに関しては章をあらためて記すが、たとえ本物であっても人の心を打たない物であればそれまた心から本物とは言えないのだ、というところに話は戻ってしまう。 |