森川如春庵の見た佐野乾山


中京の麒麟児の伝説


さて、その如春庵の伝説を見てみましょう。

16歳で光悦の「時雨」を手に入れる

勘一郎氏(1887〜1980)は、尾張一の宮の大地主であり、生涯働くことなく数寄者として過ごしたと言われています。勘一郎氏は17歳で森川家を相続したそうですが、その前の16歳の時に本阿弥光悦作の「時雨」を手に入れています。もちろん、お金を出したのは祖父で育ての親である先代だったそうですが、16歳で光悦の茶碗を欲しがる感性は恐るべきものだと思います。
そして、更に3年後の19歳の時にも同じ光悦作の「乙御前
も手に入れたそうですから、二十歳前にして2つの光悦を手に入れた事になります。その眼力と財力には驚くばかりです。


益田鈍翁との関わり

勘一郎氏は、40歳も年の離れた三井物産の創設者で三井財閥の大番頭と言われていた益田鈍翁と親交を深めた事でも有名です。
勘一郎氏が26歳の時に当時天皇のような存在であった鈍翁に対して、「あなたは金の力で物を買うが、私は眼の力で物を買っている」と言い放ったそうですが、これも伝説の一つですね。それ以来、鈍翁とは年齢を超えた親交が続くことになります。
その鈍翁との関わりで一番有名なのが、「佐竹本三十六歌仙絵巻」切
断事件です。


佐竹本三十六歌仙絵巻切断事件 ― 如春庵一番くじを引き当てる

この事件に関しては、「秘宝 三十六歌仙の流転」 日本放送協会 が詳しいので、紹介します。

佐竹本三十六歌仙絵巻は今からおよそ七百年余り前の鎌倉期に作られたもので、絵姿は似絵(肖像画)の名手と言われた藤原信実が描き、歌は後京極良経の筆になると伝えられている。(中略)
万葉から平安朝に至る三十六人の歌詠みたちの歌と絵姿が色鮮やかに描かれていたこの上下二巻の絵巻物が、それではなぜバラバラになってしまったのか。
話は六十年余り前に遡る。

事件は大正八年、師走のある寒い日に起きた。
信実の三十六歌仙 遂に切売となる。
総価は三十七万八千円
最高は「斎宮女御」の四万円
昨日益田氏邸に数寄者四十余名集合して抽籤で分配

(大正八年十二月二十一日付「東京朝日新聞」)

この新聞の記事によれば、秋田の佐竹家に代々伝わっていた三十六歌仙絵巻が売りに出されたのだが、あまりの高価に一人でこれを買い取る人がいないため、切断して一枚一枚を切り売りにすることになったのだという。(中略)
大正八年頃の一万円は、今日の一億円にも相当するといわれる。総価が三十七万八千円−今日でいえば、やはり四十億円近い金額になる。
(「秘宝 三十六歌仙の流転」 日本放送協会 87〜88項 より)


如春庵の見た佐野乾山

さて、前置きが長くなってしまいましたが、この大茶人であり超目利きであった如春庵が佐野乾山をどう見たのでしょうか?
森川勇氏が購入した佐野乾山を勘一郎氏如春庵)に
見せた時の描写です。(「乾山」バーナード・リーチ著)

家に帰り、父親にその話をした。父は有名な茶人であるが、彼の言葉を信用しなかった。
「そんなものに夢中になれるとは、お前はなんと馬鹿なのだ」
と言ったそうである。しかし、息子が持ってきた半ダースの矩形の深皿と茶碗一対を見ると、彼も驚き、それらが本物であることを信じたのであった
(中略)
その後、森川親子と林屋(晴三)氏の三人は、しみつぶしに、佐野地方を探索する計画を立て、現在までそれを続けている。



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