「佐野手控帖」にみる人間・乾山

水尾 比呂志


昭和37年6月に開催された、「新発見”佐野乾山"展」の図録に掲載された水尾比呂志氏の論考を紹介します。この展示会には、森川勇氏蒐集の作品が初めて一般に公開されたものです。
国会で佐野乾山事件が論議された後、東博、京博、東大など真作派の多くの国家公務員が発言を自粛させられた後も水尾氏(武蔵野美術大学の教授、学長を経て名誉教授。國華」名誉顧問)は精力的に佐野乾山の真作説を主張しました。
本論での氏の主張は下記のようなものです。

(以下、傍線等は引用者が付けたものです)

「佐野手控帖」にみる人間・乾山
              水尾 比呂志
                                           
 尾形乾山は、下野国佐野庄に滞在したほほ一年間に二十冊ほどの覚書を書いたと考えられる。そのうち、現在までに発見されているのは、次の十冊である。
    (1)「野州寓居控之内 乾坤上」
    (2)「深省覚えかき乾坤之内あとかき坤之記」
    (3)「野州之記之うち控もの 七」
    (4)「手控もの 八ノ壱」
    (5)「手控えもの 八ノ弐」
    (6)「覚書」
    (7)「もろくおはえかき 控」
    (8)「心おはえのことをかきつゞりしま、の記 雪の部一」
    (9)「京兆陶者乾山省手控句抄」
    (10)「壬生之記」
 これらは、いずれも形態不同で、板表紙のものもあり、布表装のものもある。それは、乾山が、須藤杜川の句帳などを折々に譲りうけて書きしるしたものだからである。大川顕道の求めによる陶法書はまだ発見されていないが、今後爾余のものとともに現われる可能性は十分にあるといってよい。なお、この十冊のほかに、幅装に仕立てられたもの三幅および残欠二種がある。
 さて、これらの覚書は、その真偽に関してはすでにさかんな論議が行われているが、すべてが一堂に並べられるのは、新発見の佐野乾山作品群と同じく、今回の展観が最初である。多くの識者による公正な判断が期待される。
 いうまでもなく、これらの覚書群は、これまで明らかでなかった佐野における乾山の行状の核心を、直接に説き明かしてくれるはかりでなく、乾山の人となりやその芸術観、また京都や江戸における製陶の事情をまで照らし出してくれる貴重な資料である。佐野乾山の作品群の発見は、おそらく美術史上空前の出来事であったが、それに伴った覚書群の発見も史上稀な事柄といわねばならない。そして、作品と覚書との関係の密接さという点では過去に例のない充実さを示し、乾山研究にどれほどの飛躍的な寄与を与えてくれるか、はかり知れないのである。そういう研究は今後の課題として、以下簡単にそれぞれの覚書の内容について述べておこう。

(1)の「野州佐野控之内乾坤上」と、(2)の「坤之記」とは、上下をなす一種類のもので、いずれも板表紙の大判の冊である。覚書群のなかでは、もっとも重要な価値を持つ。書かれた時期は、(1)が元文二年の小夏から秋おそくにいたる間で、(2)は元文二年極月(十二月)下旬の二十六日から二十八日にかけてである。
 (1)の内容は、享保十六年に京都から江戸へ移った事情から述べはじめて、輪王寺宮公寛法親王や深川の材木商冬木家の庇護のもとに、窯も築いて製陶をしていたことを記す。やがて、元文元年に佐野の大川顕道より招待を受けて心決らず、二年早春にいたって再び招かれ、使者として訪れた須藤杜川とともに、支度もそこそこ、浜町河岸から船出して、江戸川、渡良瀬川をさかのぼり、安蘇川に入って佐野庄越名へと着き、須藤家の枕流小庵に落ちついたことなどを、美しい挿画と文章と筆跡で次々にしたためてある。そして、製陶の心おぼえや、丹治という焼物師を助手にしたこと、絵付の下絵などを書いたあと、江戸へ帰ろうとする乾山を離してくれない佐野の人びとの友情に、帰るに帰られぬ状況をしるして筆をおく。
 (2)では、ついに年内帰江をあきらめた乾山の、須藤杜川、大川顕道、松村青英亭との交情のありさまが述べられ、乾の巻と同じく焼物の下絵や心覚え、佐野の風物などがこまかに描写されている。また、この乾坤の帳のほかにも、覚書をつくっていること、とくに大川顧道からは陶法書を書くことを求められて、それに応じたことなども記されてある。乾山は、製陶に書きものに、日夜多忙であったことがしのばれる。もとより佐野の友人たちの、誠意あふれるもてなしと友情に感じたれはこそであって、文中いたるところにそのよろこびは委曲をつくして書きとどめられている。素朴で真面目で、感じやすい心の持主であった乾山が、佐野の自然と人の情けによって、七十五才の老の身にも拘らず、若々しい芸術の花を咲かせることが出来たゆえんも、この覚書の文章を読めばまことに当然のことと納得できるのである。
 (3)、(4)、(5)の手控之三冊は、七、八ノ壱、八ノ弐と注記してあるところから見て、おそらく、乾山が佐野に着いてからすぐに書きはじめた一連の覚書のうちの終りに近い冊であろうと考えられる。年記は、(3)が元文二歳年暮中日、(4)、(5)が極月末日となっている。これらは日々の身辺雑記覚書といったもので、さまざまのことが書きつけてあるが、乾山が手伝人として使った五三郎のことや、友人たちのために焼いた焼物の数、また、翌春に訪れる壬生の具慶尼のことなどを知ることのできる、これまた貴重な資料である。まだ発見されていないこの類の他の覚書が揃えは、元文二年の早春から碁にいたる間の様子がつぶさに知られるであろう。ことに重要なのは、(5)に記されている、この間に作った焼物の数で、概算およそ六百点に達する。発見された佐野乾山は、そのうちの約半数に過ぎないことがわかるのである。(6)の覚書は、題字も後書きもないのが惜しまれるが、文中に「二歳秋日」の年記があり、その書き方は、(3)、(4)、(5)と共通するので、この一連のうちのものと考えてよかろう。
 (7)の「もろ々おほえかき 控」は、現在の十冊のうちではもっとも早い覚書ではないかと考えられる。年記はないが、「元文初春」という文中の言葉や内容からして、佐野に着いて日も浅い頃のものと思われる。もっぱら杜川に俳句を学んで句作をし、スケッチを描いていた日々の覚えである。「構窯意の如くなり不申」とあるから、まだ製陶ははじまっていない。この覚書で重要なのは、俳句の作法を杜川に教えられて句作し、「拙作はつかしくもおろかしきものとは申せ、あちはひあるにそのいくつかわまことにおもしろく」と正直に述べている点である。覚書にも作品にも、多くの俳句が出てくるが、乾山自身の言葉のように、拙作ながら味わいまことにおもしろいものが多いからだ。
 (8)は、雪月花とまとめたもののなかの一冊らしい。前半には、「元文二歳弥生月」に記した乾山の短い自伝と、佐野の土に関する批評がある。「この辺土の土味くすりかけまことにみぢめにそろ、荒味に育ちかわきて」云々としるし、素焼は江戸入谷より取りよせねばなるまいと述べている。そして、江戸からはじめて素焼がとどいたときは、「梅花の開陳をまたずして囀りし艶鳥」のような気持を覚えたという。元文二年三月か四月頃の乾山は、土地の土で焼いた焼物のみじめさに泣きたい気持だったのだろう。慣れた江戸の素焼を手にして、喜び勇む老人の姿がまざまざと眼に浮かぶではないか。後半は「元文初冬丁己歳」の記述となって、杜川とともにした製陶、江戸の素焼商の覚え、作ったものの種類やその形、給付のこと、渡良瀬川の川床の土を丹治に求めさせたこと、など、おおむね焼物に関する記事で占められている。
 (9)は、「元文二歳卯月」の年記を持つ句帳で、いくつかの絵と短文をそえてある。この句帳の俳句は、(7)のそれより進歩のあとがいちじるしい。末尾には次のような興味ふかい文章がしるされている。「もろ々の諸行いつれたりとても満つるものなければ、やきものの不出来に身をやく心こそいましめていくとせのみちをこへ越してこそはじめてうれしき出来栄えもありけるものそかし」
 (10)の「壬生之記」は、もっともおそい覚書である。「元文午之年」「正月中之日」の年記が文中に見られるから、引きとめられて年を越した乾山七十六才の春である。この年は、明けて早々に、佐野の北東数里の壬生に遊んだ。壬生の常楽寺には具慶という尼僧がいて、乾山はその庵を訪ね、仏法を聞き、物語をする。具慶は京の公卿の家から出た人であったので、ことさらなつかしかったのであろうか。そして、越名から馬で錦窯を運ばせて、ここでも焼物を焼いている。盆、菓子鉢、茶碗など。しかし、度重なる佐野からの注文は、さすがに乾山にも荷重に過ぎたのか、「このうえわ叶ひ申さじ、今朝の雪もろともにいづれも吹きちらし申しける」と断わっている。「人たるもの恩は着ることのミがよろしく着せざるものよ可可」という言葉は、心ない人びとへの乾山の忠告である。
「なかなかに風になひかぬ柳あり」。人なつこく心優しい乾山の、しんに一本通っている強さが、この俳句にきらめく。やがて、しばらくの滞在ののちに、再び佐野へ戻った乾山は、大川顕道邸で、この壬生之記の奥書を書き終え、江戸へ帰る。日時は判明しないが、二月頃ではなかったかと推測される。

 以上が、佐野乾山覚書の大要である。要約すれば、元文二年早春に江戸を発ち、大川顕道、須藤杜川、松村青英亭らの佐野風流文化人グループの間で、約一年間を製陶三昧に暮した記録ということになる。佐野における乾山の足跡は、これで一躍明るみに出たわけである。
 覚書のあちこちに記されているように、大川顕道に残したという陶法書のほかは、すべて自分の死とともに破りすててほしいと頼んで江戸へ帰った乾山であったが、その志に反してそれらはいま、私たちの目の前に置かれ、佐野における乾山の過した日々のありさまを知らせてくれるのだ。
覚書中にしるされている作品で実際に現存するものも少なくないし、下図そのままの絵付、歌を持つ作品も数多い。技法についての心覚えや感想が、作品の上に符合して見られるものもいくつもあるのである。そういう意味においても、この覚書群の価値は大きい。
今後、作品とあわせて研究されることによって、乾山の芸術の秘密がどれだけ解かれてゆくか、大いに期して待つべきものがあろう。
 ところで、この覚書群には、二通りの書風が感じられる。ひとつは、(7)、(8)、(9)などの、かなり奔放な書体であり、他は、(1)、(2)、(10)などにおけるような、幾分謹直な書体である。しかし、これは異筆と考えるほどの差ではなくて、同筆のそのときどきの差に過ぎない。乾山はすぐれた達筆家であって、幾通りかの書風を自由にこなしていることは、絵画の賛や落款などを見ても明らかである。佐野覚書のうち、自分の手控として書いたものには奔放な筆つきが自然とあらわれ、杜川や顕道の手にとられると予想したものには、やはり謹直な書風を書き残したと考えてさしつかえなかろう。書風の違いにも拘らず.字の裏にひそむ感情の流れや字の生気に、疑う余地のない共通性があることを見逃してはなるまい。また、細かい一々の文字の不統一や書きあやまり、語法上の曖昧さなども、それだけを取りあげて乾山真筆を否定する論拠たらしめようとするのは皮相である。
 そのような部分的な欠陥を誇張するよりさきに、そこに書かれている文章とその文字との感覚的な一致を、よく注意して読む必要があろう。乾山の文章は、ナイーヴな詩にあふれている。たとえば、江戸を船出して川をさかのぼるあたりの描写は、そのまますぐれた紀行文学である。「……粉雪おちきたりし川面の岸ちかく、柳蔭には芽生えありて、寒鳥雲におされて水辺にはためく、はやきかままの川筋に拾八人のせ子どもか声を揃えて拍子そとりしろぎしみは、しはしぞ江戸の地のわかれのうたやかくありなむと、そゞろ人の世のさきざきのわからぬゆく末は、無明の岸のあけくれならむものをと、おもひもいとゞ深きかまゝに、老中大炊守様御城下なる古河のミなとをさしてのほりける……」文章と文字の間には一毫の食い違う隙間も見出せない。心のおもむくままに筆は動き、筆に乗って心は淀みなく流れ出るのだ。片々とした覚書の文言にも、俳句にも、それはじかに感じとることが出来るのである。
 佐野において、乾山の芸術が開いた花の美しさは、この展観の多くの作品が十分に見せてくれるが、乾山の心や文章や筆使いもまた、この覚書群のなかで美しく咲いていることを読みとっていただきたいと思う。



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