乾山はなぜ佐野に行ったのか?
普通に頭に浮かぶ素朴な疑問ですが...
乾山はどうして佐野に行ったのでしょうか? 69歳の時に京都から江戸へ下って更に75歳の高齢で佐野まで行った理由は何だったのでしょうか?
高速道路を使うことができる現在でさえ、佐野は埼玉に住んでいた私にとってさえ遠い所です。最近は、アウトレットモールができたり、佐野ラーメンが有名になっていますが、それでもなかなか行く機会のない場所です。(地元の方、申し訳ありません!)
現在の通説の中には、これに対する回答は全くありません。通説では晩年、江戸に来て作陶したようだ、佐野にも行ったようだ、程度しか分かっておらず、いつ江戸に行っていつ佐野に行ったかも全く分からないのです。ただ、いくつかの江戸作、佐野作と言われている陶磁器や絵画が残されているだけです。
一方、森川氏、住友氏の蒐集した手控え帳を読むとその辺りの事情がかなり明らかになっています。以下に住友慎一先生の「佐野乾山の実像」から紹介します。
当時の佐野ですが、かなり繁栄していたようです。
乾山が佐野を訪れた頃は、天明宿、小屋宿の江戸街道沿いの町は富有な店が両側に軒をつらね、江戸に次ぐにぎわいの町として小江戸ともいわれていました。また越名は江戸に通ずる舟便の要所であり、その上、佐野庄一帯は、江戸と徳川霊廟のある日光とを結ぶ例幣使街道につながる大きな宿場町でした。このような政治、経済、交通の要所にある地として、徳川譜代大名筆頭の彦根藩井伊候の直轄地となっていました。当時の佐野奉行代官松村広休、鋳物奉行代官大川顕道、回船業須藤杜川、近隣最大の鋳物業者の正田道茗等は、財力、教養とも当代一流に人物で、中央の文人墨客と盛んに交流しており、乾山もこの四人に招かれて来佐したもののようです。(P44〜45) |
また、手控えによると江戸から佐野に行った時期も理由もある程度明確になっています。
乾山が京都を立ったのは、享保十六年乾山が69歳の時です。そして、江戸では光琳もお世話になった江戸の冬木家に居候になったそうですが、冬木家の商売第一の待遇にかなり不満を持っていたようです。そして、享保十七年の初め頃には佐野の大川顕道から招待されてますが、
「江戸に下れば、下野(佐野)へ、そこにまいれば、その先へと、末は、えぞの国までゆきつくやの旅を重ねて年老いてゆくのは、いかなる星のもとに生まれたのか」
と嘆じたそうで、その時は断っています。
そして、佐野滞留の期間ですが、
元文二年早春、乾山は江戸(湯島)を立って越名(こえな)に向った。乾山は杜川宅に直行せず、天明宿の型造り工人次郎兵衛宅に、大川顕道の指示で、身元確認のため、半月ばかり滞在した。その後、杜川宅に入った。(P74) |
とのことで、その後、佐野の地の美しい自然と招待してくれた4人の文化人の厚いもてなしが気に入り、結局1年半ほど滞在したようです。乾山は、江戸には帰りたくなかったようですが、冬木家に対する義理から、帰らざるを得なかったようです。
当時の越名河岸は、川幅9m長さ11Kmに及び、両岸に松杭を隙間なく打ち並べ、水上は百数十隻の船が帆柱を林立し、壮観であったそうです。江戸時代の物資の輸送は多く水路を利用して行われ、江戸の町でも運送のための水路が多く築かれていたそうで、越名から江戸へはこの水路を利用して輸送を行っていました。
乾山は佐野で、作陶用の土や素焼きの陶器を江戸に注文していましたが、その輸送もおそらくこの水路を利用していたのでしょう。
このように当時の佐野は現在からは想像もできないほど繁栄していたようです。手がかりがなく、当時の事が全く分からないのであればこれらの手控え帳を参考に研究すればよいのに、と素人の私などは思うのですが...。
佐野手控の内容を頑ななまでに無視する美術書や研究書には不信感が湧きあがります。