「佐野乾山」の発見者、所有者である森川勇氏の反論!

「乾山」真贋説の終幕

芸術新潮 1962年5月号 <特別レポート>


●レポートの概要


四月七日朝、「佐野乾山」の所有者、森川勇氏は、実父勘一郎氏(元・文化財保護委員)と連署で、文化財保護委に対して、「位相差顕微鏡などによる科学調査によつて、制作年代をはつきりさせてほしい」旨の請願書を提出した。その間の経緯については後述することにするが、文化財委側も、請願を一応受理した形なので、本誌が発売されるころには、文化財委の中間報告がなされたりして、真贋問題は新しい段階に入つていることだろう。だが巷問には根強い否定説があとをたたない。そうした真贋をめぐる"から騒ぎ"にピリオドを打つために、本誌は否定説をかかげる十数氏に聞き、最も問題の核心にふれると思われる意見を集めて森川氏に提示し、疑点に答えてもらつた。(編集部)



●作陶をめぐって

疑問(1)
乾山が佐野で作陶に用いた土は、当時の交通条件などから考えて関東一円のものと推定すべきであろう。「入谷の黒土」を使つて素焼きしたものを、久作なる者によつて江戸から舟で佐野へ運ぱせて絵付けし、焼いたという乾山研究家・鈴木半茶氏の説は妥当と思う。
ところが、新発見・乾山は人谷の黒土でないことは勿論、関東の土地でもないように思われる。関東特有のローム質が、ほとんど見られないからである。そのようなことから、ことさらに出所を瞬.昧にしたこしらえものの土によつて作られたものではないか。
<森川氏回答>

「佐野手控」によれば、「佐野乾山」は入谷の素焼きおよび佐野の地土を使い、これに絵付けして焼いたものである。「入谷の黒土云々」とい鈴木半茶氏の記述について、わたしは先日、鈴木氏にじかに問い合わせてみた。同氏の答えでは「入谷の黒土」という言葉は文献にはでてこないが、根津美術館の土器皿のやや黒味をおびた赤色を見てそう思つたのだとの話である。この土器皿は、陶磁協会では入谷乾山の本物と大々的に賞揚しているが、わたしは十分調査させていただきたい。次に「入谷の黒土」そのものは存在するのか。上野台地は表面から黒土(腐植土層)関東ローム、板橋粘土層(白色粘土)東京層(青灰色粘土)いずれも現代の呼称…の順、に積み重なつているが、いちばん上の黒土は焼きものには使えないのが常識だから「入谷の黒土」は存在しないことになる。東京層の土は水を含んでいる時、暗青色を呈しているから、これを黒土としたとも考えられるが、伊賀の黒土や備前の田土(黒土)と違つて焼いても自くならない。板橋層も、東京層よりは淡いが茶がかつた色に焼き上がる。
では佐野乾山をかたちつくる白色の土はどこからきたのか。この謎をとく鍵は、反対派の陶磁協会、篠崎源三氏が「ホンモノ間違いなし」と口を極めている滝沢家所蔵「佐野伝書」(伝大川川声翁書写本)の各所に散見するのである。(伝書が川声翁の直筆かどうかは疑問なしとしないが、かなり古いものであつて、この記述は相当信ずべきものである。)

‘酖素歪二町め遠江や文之亟方にて調候自土一貫匁二付四両かた。(この遠江屋は森川家蔵の「佐野手控」にも登場し「すやきのわたりよろしく入谷土器用になめらしく、土値段の儀は別ものに御座候よし」とある)
京白土茶碗一ツニ付代十九文づつ
9掌傭賄據⊃緘一貫匁ニ付代百文(水飛とは水で不純物を抜いて精製すること)

とあるように、江戸の土にくらべて格段の高値だが、京都方面の白土や白土による素焼きが、江戸の商人によつて招来されていたのであ.る。伝えられるように入谷窯が将軍家の菩提寺寛永寺の御川窯であつたとすれば、斎器にこの上質の上方の土を使つたことは十分に考えられることであり、公寛法親王の口ききで乾山が入谷窯の素焼を入手したこともまた十分ありうることであ.ろう。

ここで注意しなければならないのは、手控は「入谷の素焼」といつているのであつて「入谷の土」といつているのではない点であ.る。入谷窯のすべてが御用窯だつたわけではないだろうから、入谷の土でできた焼きものも巷間に伝わつてさしつかえないが、逆にだから乾山も入谷の土を使わねばならぬということはない。

疑問(2)
「真正乾山」は当時の状況と窯式にふさわしく作品を裸焼きしている。つまりサヤに入れないで焼いている。ところが、「新発見の佐野乾山」は作品をサヤに人れて焼いており、窯式が現代のものであると考えられる。
<森川氏回答>

次に焼成法の問題だが、この質問の程度の低さにはおどろかざるを得ない「裸焼き」と「内ガマ焼き」、本焼きと楽焼きとの区別を質問者は理解していないのではなかろうか。これを知つていたらこんな種類の質問は出てこないはずである。
「裸焼き」とは備前焼や伊賀焼のように、焼きものの肌に直接焔の当る焼成法をいうのである。ところが乾山の焼成法は京都においても、また江戸、佐野においても「内ガマ焼成」であつたであろう。現存する「真正乾山」を考えてみればよく分ることだが、灰がかかつたり「くすぶり」が入つたりすることは焼成される焼きものの美を決定的に損うことになる。だからこうしたさまざまの障害を排除するための必要な手だては「内ガマ焼成」なのである。「新発見の佐野乾山は作品をサヤに入れて焼いている」というにいたつては噴飯ものであり、乾山の焼きものを知らないにもほどがある。

念のために申しそえておくが、乾山のような"楽焼き様"のものは、「引き出し」といつて内ガマから真つ赤になつている作品を道具(はさみ)を使つてカマ出しするのが現在でも常識である。サヤに入れて焼いた場合、カマが完全に冷却してからでなければ取り出せない。このため「トチン」とか「ハマ」「目」などを焼きものの底に用意するが、その跡が残つてしまうのが当然である。だが乾山作陶にはどれにもその跡がみられないのである。つまり「内ガマ焼成」の決定的な証拠である。「内ガマ焼成」は仁清も使つていることは記録に明らかだから、仁清から焼きものの技法を習つた乾山が大いにこれを利用したのは当り前であろう。


疑問(3)
焼物地として知られていない佐野では、窯や材料の入手に非常に苦労したと思われる。本焼窯は勿論のこと、錦窯をつくるのには相当の目数がかかる窯をつくつてからも素地土に釉薬をマッチさせるまでにも、数回のテストが必要である。だから短期間に数百点という焼成は考えられないことだ。
<森川氏回答>

新発見の「佐野乾山」の点数があまりに多くて、約一年の佐野滞在の問にとてもこんなに焼けたとは信じられない、という疑問が残るかもしれない。

篠崎氏は佐野乾山のホンモノは六点ぐらいと言うが、いつたいそれほど少なく見積らなければならぬ理由がどこにあるのか、わたしは不思議に思うほどだ。やや専門的になるが、窯は、一尺五寸内径の錦窯として三日もあれば十分築けるし、内ガマは三十パーセントの耐火粘土の混合土で結構間に合う。さらにこの大きさのカマだと八寸皿では一回のカマづめは五枚以上できる。そして一日に五回-八回は極めて楽な作業である。したがつて一日二十枚の焼成は簡単ではなかつたか。

乾山は三十七才ごろから作陶にたずさわつていたのだから、佐野におもむいた八十の坂に近い老境に至つては絵具や、釉のとけ具合、土の混合などはまつたく自家薬ろうのものであつたろう。反対者が推定するようにロスを五倍にも十倍にも見込むのはナンセンスもはなはだしい。楽焼き様のものなれば最大にみてロスは二十パーセントが常識であろう。


疑問(4)
本誌三月号の「佐野乾山」の原色版のうち.扇面皿のアヤメの青い色は、当時、支那から輸入していた支那呉須では発色しないものと思われる。これは明治以後の輸人品である酸化コバルトでなくては出せない色である。
<森川氏回答>

さて絵具であるが、陶業をやつた方ならば絵具の使用量は容易に目安がつくはずである。三百点着画するのに、各色二斤あてもあれば十分足りることはいうをまたずのことであろう。乾山が経済的にも窮迫していて、絵具を買う金がなかつたろう、という推定に対しては、さきにのべた上方の白土の件と同様の答えがなされようし、日本橋、両国橋で絵具が売られていたこともやはり文献にみえるのである。

扇面皿のアヤメの青は質問者のいうとおり支那呉須では発色しない。だが「花群青」「花紺青」という絵具の存在をご存じであろうか。古くから日本画家の間で使われている絵具であり、「佐野手控」(佐野大川家所蔵)「佐野伝書」(滝沢家所蔵の二種)にもこれをあげている。だから明治以後輸入された「酸化コバルト」とは全く異なるものであることは論をまたないだろう。また滝沢家本にはビードロを使用したむねが記されている。

「一、びいどろ百匁につき代銭百六十四文、但し青、白、黄、いずれにても同。右は日本橋四丁目東がわ大わう丸のくすりやのとなり、「びいどうさいくどころ」とかんばんあり」
「一、渡りびいどう□け□□壱両、代壱両七、八分くらい、右は日本橋四丁目たまやにてたずねそうらへば右の通り云々」

とあり、ビードロを絵具にしていることは明らかである。アヤメの
青の"秘密"をとく手がかりはこうしたところにもあるのである。


●手控えについて

疑問(5)
「手控」の仮名遣いないし文法上の誤りと混乱が甚だしい。森川氏所有の手控(表紙が板張りのもの)にも「ゐ」を用いるべきところを「い」になつていたり、さらに助詞の「は」つまり「何々は何々である」の「は」を、「わ」とかいている個所がある。よほど無学な人ならいざしらず乾山ほどの最高度な教養人が、このような誤りを犯すということはありえない。現に乾山の真筆として声価の定まつている大和文華館蔵の乾山侍書の内容は、乾山がきわめて正確な文法にしたがつていたことを立証している。
<森川氏回答>

仮名遣い、ないし文法上の誤りが指摘されているが、乾山在世のころに正確な仮名遣い、ないし文法があつただろうか。近世において"正確な"仮名遣いが確立されたのは契沖によつてであり、それは元禄の初年であり、その説が世に賛成されはじめたのは元文年間より約五十年後の明和に入つてからである(古言梯)ことは国語学上の常識である。
したがつて乾山が仮名遣い、または文法上の〃誤り"をおかしたとしても、それは文字通りの誤りではなかつた。新古今集の清輔本をみても、「ちからをもいれすして」と書くべきところを、「ちからおも」と誤まり「すみのえ」を「すみのへ」「あひおいのよう」を「あひをひのよう」と誤記している。また同本では「をはり」と正しく書いているが俊頼本、元永本、筋切れでは「おはり」と間違えている。清輔のような教養豊かな殿上人であつてさえこの通りである。


疑問(6)
「新発見の手控」には、多くの俳句めいたものが記されているが、季がメチャクチャであるばかりでなく、駄句が多い。

不出来とは思えど皿をなでにけり
香りより色と姿や梅の花

いかに俳句には初心だつたとはいつても、かくまでに拙劣で意識の低い駄句を作るとは考えられない。
<森川氏回答>

次に「手控」にでてくる俳句の季がメチャクチャといわれるが、その意味が明らかでない。季語がないというのならわかるが…。もつとも季語がない俳句は詩聖芭蕉の句にさえ発見できる。
ところで例にあげられた二句のうち、「不出来とは―」の句だが、確かに初心者の句には違いない。乾山は佐野へ来てはじめて須藤杜川(新撰俳譜年表にもあげられている)らの俳人に手ほどきされたのだから無理からぬ話である。それだけに素朴な実感があふれている。著名な俳句研究家の市橋鐸教授の説明によれば、乾山の俳句は、「推こうということを.せず、頭に浮んだままをうたつたうぶな俳句」といつている。
「香りよりl」の句だがなぜ拙劣なのか。こ
のような質問をする人の俳句に対する理解度こそ拙劣である。この句は乾山が自分の絵付けした梅の皿や鉢の姿をうたつたものであろう。梅の花を文字通り梅の花と解釈するからとんでもない迷路に入つてしまうのである。こうした質問者に俳句を語る資格があるだろうか。
いずれの疑問も「手控」を否定する根拠にはなりえない。



●乾山観の相違

疑問(7)
「新発見の佐野乾山」の絵の筆致は、従来の「真正乾山」と比べて著しく異なつているが、しかもその図柄は「真正乾山」からとつたとしか思われないものが多い。「新発見の佐野乾山」が真物なら「真正乾山」は贋物でなければならない。これは明らかに決定的な矛盾である。
<森川氏回答>

「佐野乾山」反対論者は必ず従来の「真正乾山」とくらべて筆致が違いすぎる、という。だが私に言わせれば従来「真正乾山」として通つてきたもののうちにこそ価値のないものが混つているのであつて、それと「佐野乾山」をくらべて、筆致が違いすぎるといわれても、当惑せざるをえないのである。
反対論者は、京都、江戸、佐野の各時代の作品のうちで、どれをもつで、よしとするのか。京都時代ではまず光琳の絵つけ落款、乾山の賛あるいは落款による合作物をあげるのは誰しも異論のないところだろうが、そうした作品にしたためられた乾山の書(いずれをみても自信に満ちた書風である)と同時代の乾山自画自賛の作品として通つているものの書をくらべてみると、大部分は玉と瓦ほどの差が判然としているのに、どうしてそれを究明しょうとしないのか。不思議なことである。
京都時代の乾山自画自賛の作品は二条家文書を見ても分るようにいろいろあつたであろうが現存するものは少ないと思わざるを得ない。一方、江戸下向以後は、松永家蔵「花籠ノ図幅」、京都個人所有の「八ツ橋二杜若ノ図幅」(いずれも重要文化財)その他乾山
の自画自賛になる、確信すべき画幅がいろいろあり、画も書もともに芸風のゆたかなもので、京都時代の光琳と合作による諸作品の書風とくらべて人間的なふくらみを感じさせるものである。



疑問(8)
「新発見の佐野乾山」のあるものの銘文には、乾山が京都在住中の作品にだけ入れている「洛中」の銘がある。佐野の作品の銘文に、それを作つた場所を意味する個所へ「洛中
」を用いるということはよほどの牽強付会の解釈を施さないかぎり考えられない。
<森川氏回答>

「佐野乾山」の書風が、京都時代書風(端正でしつかりしているが、型にはまつているようで無心な自由さが欠ける)に比して違いすぎるというのは、あまりにも偏狭な考え方である。老境とともに書風が変化していくのは誰にでもある現象である。
先にのべた京都時代の自画自賛の書風が合作品の書風と違うというのとは、問題の性質がまつたく違う。画風についても、江戸時代の確かな作品、たとえば先の二点や「椿ノ図幅」(住友家)、「立葵ノ図二曲屏風」(梅原家)、「へちまノ図」(平瀬家旧蔵)、「柳ノ図幅」(大和文華館)、「蛇籠薄乱盆」、「山水扇面画」(東京個人所有)、「百合の花ノ図幅」(有賀家旧蔵)とつぶさに比較研究すれば、このたびの新発見の乾山が正しいことはよくおわかりになるはずである。

京都時代の乾山は、何もかも忘れて作陶三昧にふけることができたであろうか、経済的にも精神的にもかなり疲れていたことが、東大の山根助教授によりやがて発表される、小西文書の研究書で明白になるであろう。「王城の地を、自からのなせる不首尾のままに去りつる事、この上もなき、不屈者に候こと重々肝に命じ候」と、さびしくあきらめて、公寛法親王の仰せもあり、お供して江戸下向となつたのである。

乾山が佐野に在住した約一年の問、いかに彼が生まれ、育つた京都の風土を偲び、王城の風情をなつかしんだかは、作品の多くに「京兆紫翠乾山」とあることからも容易に想像される。また手控にある俳句のうちに、「二荒や京まで飛べよ赤とんぼ」とあることからみて、佐野における乾山はある意味では"望郷の詩人"でもあつた。だから乾山が京都の夏を思い「洛中の夏天下に魁」と「八ツ橋カキツバタの図」に賛をしたのは当然すぎることであろうし、むしろそうあつてこそ乾山の人柄が迫つてくる。

そうした"失意"と〃望郷"の乾山を心より迎え優遇した、杜川、川声、青英亭(広休)ら一代の風流人たちの心のぬくもりが「佐野乾山作品」を誕生させたゆえんであろう。だから京都への思慕の念にもかかわらず、佐野行が乾山一代の最も感激ふかい、開花の時であつたと考えてまちがいないと思うのであり、作品の上にあますところなくその時の感懐を吐露
したとしても、少しも不思議はないであろう。「佐野乾山」の絵の色がはですぎると人々はいわれるが、実物をとくとみていただきたい。一見若々しく見える中にくめどもつきぬ、老境の天地があるのである。しよせん、美とは、真に理解しあえる者同士が語り合うべきものであろう。




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