渡邉達也の「真贋 尾形乾山の見極め」
「佐野乾山」を追い続けてきた研究家の名著
第6章 乾山に魅せられた模倣者
●第6章 乾山に魅せられた模倣者
楽焼は低火度焼成のために、築窯もさることながら、800度前後に温度をあげることもさして時間がかからず、釉薬や絵具の調合と絵付けさえできれば、文字通り「楽」な焼成作業である。つまり、安易に焼物ができる面白さが魅力なので、当然乾山が帰京した後も、助手の五三郎や丹治の指導の下に、万端整っている大川、松村、須藤の三家、特に須藤家は三基もあって、自由人の屋敷に助手のいる絶好の場所ということで、多くの乾山陶器を模倣したものが、作られたと考えられる。勿論今日いうところの贋作や偽作といった意味あいからではなく、あくまでも乾山陶器の見事さにひかれての、悪気のない所為とみての策陶であり、私もこれらの作品をかなり実見している。 助手の殿木五三郎の如きは、武士の出身で教養もあり、また基礎習画の経験者とのことだから、彼の作ったもので絵付けに乾山銘を入れた作品があるとすれば、最も見分けが難しいと考えねばならない。だが、究極は芸術性に帰するから、乾山の真髄にまで迫ることは不可能なので、じっくりと絵画や書詩文の全体的な構成を、そして釉薬や絵具の状況を綿密に検討すれば、おのずと区別がつく筈である。 |
手控えによると、乾山の留守中に五三郎は乾山のコピーを作って、その出来栄えを自慢顔で「私にも出来る」と乾山に見せたところ、乾山は激怒して、「真似をするのは最も悪いことだ」とその安易な行為を厳しく戒め、模倣作品を叩き割ってしまったと記す。助手を勤めることは、技法上に関わる総ての状況を、直接みて経験できたことから、陶工職人の世界の常識として、それ程の考えもなく模倣陶を作っただけの話であった。しかし、大切なことは、「真似をしてはいけない」という言葉が、職人ではない真の芸術家の精神だ。 これが最も本質に関わる第一の基本姿勢であり、この一言をみても、乾山が他の陶工と異なる本当の芸術家としての、偉大な存在であることを知らされる。芸術は、創造でなければ無意味なのだ。 もう一人の助手丹治は鳥山の生まれといい、会津本郷の陶器職人であったので、素地の成型にはそれなりの腕をもち、乾山にとっては五三郎と共に重要な助っ人であった。したがって、乾山の絵画や漢詩文の表現になると、全くお手上げで真似にもならない筈だし、たとえ丹治が模倣陶をそれらしく作っても、その判別には全く心配はいらないといえる。 |
●第9章 低火度焼成における色彩
佐野滞在中の乾山は、書き残した手控えの中に、高火度焼成による本焼をしたい旨を書いているが、希望通りにならず低火度焼成の楽焼(二重構造の内窯=錦窯)に終わっていることは、前にも書いておいた。したがって、佐野乾山と称されるものは、原則として軟陶でなければならない。作品の中には少し温度が上がりすぎたかなと、思われる感じのものがあるけれど、それは問題視するほどのことではない。勿論その反対の低温で溶融不充分の生焼も当然あるわけである。 乾山は先天的に色感に優れた画人だから、色彩のよくない、いわゆる品のない、いやらしいものは全くない。現代でもそうだが、えてして低火度の絵具や釉薬によるものは、前記のような雰囲気になりがちな性格があり、普通では上品な作陶は難かしく、このへんがつまりは凡才と天才との分かれみちなのかもしれない。したがって、私たち研究家が判断基準とする重要な点は、絵画として立派なものか、に加えて色彩に品位があるか、ということなのだが、おおよそ立派な絵画であれば、前記したように色彩も品位のある美しさによって表現されているのが当然なのである。 |
特に佐野における作陶では、赤色系の絵具に苦心し、おそらく乾山にとって満足のゆく表現に適する色相を考案したもので、多くの作品、たとえば紅梅、紅椿などをみても、赤色系に幅があり、彩度もよくその使いわけが見事といえる。京都や江戸時代の赤色は決して美しいとはいえず、むしろ苦労している表情の赤色であり、これも重要な判断基準である。 この範囲の広い赤色系にこだわったのは、画家としての色彩感覚が許さなかったことであって、描く対象や画想によって意識的に変えねばならない「作画精神」によるものと解釈できる。 |