渡邉達也の「真贋 尾形乾山の見極め」
「佐野乾山」を追い続けてきた研究家の名著
●序
昭和37(1962)年に起きた佐野乾山真贋問題について、芸術新潮は専門誌の立場から早速「新発見佐野乾山」(3月号)として紹介した。その本旨は、古陶研究家、学者間にも新発見をめぐって真贋両論あり対立している。しかし実物を見た人は意外に少ない。(そのために憶測や噂がうずまいた)とくに本紙のために一部を公開してもらうこととした。(中略) そこに佐野乾山の登場で、特に注目したいのは、数冊の覚書で多くの学者によって高く評価されている。これによって、乾山が1年3ヶ月佐野に滞在し、厚遇を受けてのびのびとした制作をつづけたであろうことが立証されている。佐野乾山の発見によって、自由奔放、生命感にあふれた作家と想像されると評する人もある。在来、陶工としてしかみられなかった乾山が、陶画家としての面を、”新発見”した意義は大きいといわねばなるまい。と編集者は冷静に正確な判断を示していて、これは今でも間違っていない見解であるということができる。その後、芸術新潮は佐野乾山に関する諸問題や、経過状況などについて中立公正な立場で記事を掲載し、特に新発見「佐野乾山」展を企画、東京会場白木屋(6月19日〜28日)、大阪会場大丸(7月3日〜8日)開催したことは、非常に意義のある画期的な事業であった。 この展観は真贋論争の姿を世に問うという基本的な意味もあって、美術界は勿論のこと一般社会まで、真偽のほどはいずれにしても大きな話題となった。 |
しかし、学術的な調査や研究から外れて、日本陶磁協会に関わる贋作説者たちが、機関紙「陶説」に抹殺を意図したかのような執拗さで、徹底した贋作説を掲載したため、何も知らない一般の人は、さも当然のように、その贋作説を鵜呑みにする短絡的な興味本位の話題へと移行した。 それは、これから私の拙文を通読下されば、理解していただけるものと思うが、この新発見の佐野乾山で、直接に或いは間接にと不利な立場にある人は口を閉ざすか、贋作説を鼓吹するかであった。まして公的職務にある場合は、昭和37年10月29日の第41回国会衆議院文教委員会において、高津正道議員による佐野乾山問題に関しての質問に文部事務官清水康平氏(文化財保護委員会事務局長)が、国立博物館に国家公務員としての発言に注意したという一事で関係した学者は一切公言できなくなり、他の国公立大学の研究家も同様に佐野乾山問題については触れなくなった。したがって、これを期に贋作説者の一方通行となって、それらの極論者にいわせれば、贋作であったからこそ、真作説が唱えられなくなったのだ、と都合よく逆利用していたのが実情であった。 |
私は佐野乾山の全部が全部、真作だというつもりは、毛頭ないのである。しかし、乾山が下野の佐野や壬生に来て作陶をしたことは事実なのであるから、その上にたって冷静に乾山の悼尾を飾る最高の陶器における彩画を、乾山の芸術の上に位置づけをしなければ、それこそ日本美術史上に、或いは世界の文化史上にとって、これ以上不幸な損失はないであろう。乾山の高度な技法による美を発揮したのは、高火度焼成によるものではなく、やはり佐野における低火度焼成による彩画を最高の芸術にせねばならないからなのである。 |
なお、ここで夢想だにしなかった恐るべき事件について、少し触れておかねばならない。私達真作説者にとって、真贋問題から37年を経た現在、まさに”晴天の霹靂”ともいうべきことなのだが、陶磁研究家落合莞爾氏の調査によって判明した事件を第十二章にも少し書いておいた。実は贋作説を一方的に調査や研究もせず、強引に一般社会に定着させた元締めは日本陶磁協会なのだが、その協会傘下の学者や陶芸家、美術業者に、一般の愛好家たちが、身の保全に汲々として贋作説に同調したのも、当然のことなのであった。 この日本陶磁協会の贋作説運動が、単なる協会自体の問題ではなかったところに、また一方においては、絶対的に公表できない秘密があり、それは考えも及ばぬような内容であった。戦前(太平洋戦争)から陸軍特務機関員の画策によって、軍費調達のために中国陶磁器及び日本陶器(桃山・江戸時代)の倣陶(贋物)を、その当時の著名な学者や陶芸家を国策にそった協力という形で作陶に従事させたのである。その中に佐藤進三、小森忍、荒川豊三、石黒宗麿、加藤唐九郎、北大路魯山人などに、太平洋戦争の従軍画家となった洋画家の鶴田吾郎らも加わっていたらしい。もちろんこの中の誰かが乾山の作品を作ったことになり、それらの贋作は時の富豪や公私の美術館に売却され、ときには名品の折紙さえつけられて、公然と各展覧会などに出品されているとみられる。 |
つまり、その特務機関の重要人物吉薗周蔵らが、日本陶磁協会を設立し、陶磁器工芸の世界に大きな力を持つ権威機関にして、敗戦後も倣陶に関わった研究者や陶芸家たちが所属し、相互扶助の持ちつ持たれつの関係にあったから、昭和37(1962)年の佐野乾山発見時に、その組織にいた人たちは自分の過去が露見するのを恐れ、梅沢彦太郎理事長の贋作説に同調して一斉に否定派にまわった。またそのような内情を全く知らない協会に関わる一部の研究家や陶芸家、美術家たちが追随するようになったのも当然の成り行きであったといえよう。 行政機関の文部省も、有力者をバックにしている日本陶磁協会に属する元特務機関の黒幕の差し金とあれば、森川勇氏の科学鑑定依頼も、行政機関は真贋の判定するところにあらずとして却下、真作説を公表した東京国立博物館の林屋晴三氏、京都国立博物館の藤岡了一氏、白畑よし氏や東京大学の山根有三氏などが、「佐野乾山問題に関して、触れてはならない」との上意下達に、その後は一切口を閉ざしてしまった。これは国公立の大学にも及んだというから、常識的にみて明らかに緘口令をしかれたといってもよい。 |
このような裏工作があったことなど、全く知らない真作派にとっての活動は、その裏付の調査と研究に数十年費やしたものの、日本陶磁協会の機関紙「陶説」などによる佐野乾山贋作説が、さも当然のように罷り通るような風潮が出来上がって、美術界もまた一般的にも、真実の姿を確認しえないままに、容認される形になってしまった現在なのである。 しかし、今ここに右のような、つまり政治絡みの忌まわしい事件とみたとき、日本の文化行政と美術に携わる一部の学者や研究家、そしてまた陶芸家たちの知性が、如何に貧窮であったかと、心から嘆かざるをえない。真正佐野乾山を闇雲に葬りさろうとした元凶が、こともあろうに学術研究とその啓蒙を目的とすべき任にある筈と、思われる日本陶磁協会であったとは、まことに情けないの一言に尽きよう。 |
なお、つけ加えるならば、江戸時代に井伊彦根藩の藩窯(湖東焼)では、染付、青磁、赤絵を作らせたが、写陶として織部、志野、高取、膳所(遠州七窯)、伊賀、古九谷、伊万里、仁清、乾山、安南、交趾(印度支那)などがある。(やきもの辞典光芸出版編昭和55年刊参照) この内の乾山写陶も贈答品などとして他藩の諸大名に渡った。しかし、それらの「湖東乾山」は、現代になると諸般の事情から富豪や公私の美術館に収蔵され、中には前記の陸軍特務機関製「佐那具乾山」と共に、名品としての待遇をうけているものもあるようなので、この際、新佐野乾山の発見を期に、従来より公立の美術館等に収蔵されている乾山作品について、再検討を加えなければならないのではなかろうか、と考えている。つまり、そうすることによって、従来の乾山観がかなり軌道修正されるものとみられるからである。 そして、なぜ佐野乾山だけが、その真贋をめぐって、あくことのない論争の対象にされているのか、という理由の原点を、少なくともこの拙著によって、冷静に判断をしていただければ、人為的に歪められた乾山芸術の全貌が、必ずや理解されるものと信じながら、昭和37年以来乾山の作品について、調査し研究を続けてきた次第なのである。 |