再び「乾山」とは何かを考える


「乾山」とは 何か?
陶磁器を作るためには、いろいろな工程があります。「乾山」の作品を作る工程を考えてみましょう。

  1. 作品を構想する(構図、デザイン)
  2. 土を選定する
  3. ろくろ引き、器の成形する
  4. 絵付けする
  5. 画賛、「乾山銘」を入れる
  6. 焼成する

私の「乾山」の定義は「「乾山銘」があるもの」です。つまり「「乾山」と書いてあること」が最低条件だと考えていました。(上記の5項)
1項の作品の構想や2項の土の選定は乾山自身で行うにしても、3項の土をこねたり、ろくろを引いたり、6項の焼いたりすることは弟子たちにまかせ、4項の絵付けは光琳渡辺始興にまかせていたようですので、乾山が自分の主張を作品に出す部分は5項の画賛や「乾山銘」を書くことにしかないと考えるからです。
ところが、 1982年に五島美術館で開催された「乾山の絵画」の図録に右のような「乾山銘」のない作品が掲載されているのを見てビックリしました。形や絵、図柄を見ると確かに乾山のもののように見えますが、正直言って「乾山と書いていないものを「乾山」作品と言っていいのか?」と思いました。

どうも納得がいかないので乾山の研究家の方々が、乾山が作品に対してどのように関わっていたと考えているのかを調べてみました。

(乾山銘のある作品:「乾山の絵画」より)


以上のように、これまでの研究では乾山自身は自分で土をこねたり轆轤を引いたりすることなく、プロデューサーやデザイナーとして弟子たちに器を作らせていたというのが共通した「乾山」作品の解釈のようです。つまり上記1項に書いてある部分ですね。これらの満岡氏や佐藤氏、竹内氏の乾山のとらえ方を読んでなるほどと思いました。確かにデザイナーやプロデューサーであれば、乾山銘がなくても「乾山」の作品といっていいのかもしれません。

しかしその事を理解したとしても、私個人としてはこの銘なし乾山を「乾山」として認めることには抵抗があります。
乾山自身は轆轤を 引いたり、成形したり、焼成に関わっていませんでした。そして絵付けは、光琳や渡辺始興などが行っていました。そうなると、乾山が作品に自分の主張を行う部分は5項の画賛、「乾山銘」を入れることしかないように思います。そして、乾山はそこの部分で自分の思いや主張を自分の作品に入れ込んだであろうと考えます。食器などの数物の器であれば、弟子たちに全部やらせたものがあるかもしれませんが、上記のような大きな蓋物の「作品」に関して「乾山銘」を入れないことはあり得ないと私は考えます。(あくまでも個人的な意見です)

実は、私は最近まで「乾山は作品に対してデザイナー的な役割であった」という説は、ここ20年くらいから出されてものと思っていました。というのは、「乾山の陶芸」(五島美術館 1987年)の図録の中で、林屋晴三氏が以下のように書いていたからです。

もちろん個人的な制作品もあったであろうが、基本的には工房生産という態勢によって経営されていたであろうという認識をもたなければ、その作品を理解することはできないからである。さらに推測を深めれば、乾山工房にあって、作品に付けられた「乾山」の銘を、すべて乾山が自署したか否か疑問であり、(中略)
それにもかかわらず、過去の乾山焼に対する私たちの態度はいつも乾山自身の作品(工房生産品ということではなく)として捉えようとしてきたため、どこかあいまいさの残る作品論を展開せざるを得なかったといえる。
したがってまず、工房生産であるという認識をもって作品を捉え、その上で個々の作品の作行きを観察するという研究が行われねばならなかったのであるが、残念ながら世上の声価が作用して、そうした研究姿勢をとることができなかったことに、いまさらながら忸怩たる思いを抱くのである。

しかし実際には、工房説は前述のように満岡氏(昭和33年)や佐藤氏(昭和45年)によって、50年以上前から主張されていたことだったのです。
しかし、もしそうであれば一つの疑問が湧いてきます。上記の満岡氏や佐藤氏のような研究が出されていたにも関わらず昭和30年代後半に起こった「佐野乾山事件」での議論では、乾山作品は一人で成形から絵付け、焼成まで一人でやっていたように考える人たちも多く、「形が悪い」、「ろくろの成形が乾山のものとは違う」、「絵付けが違う」などの批判が大勢をしめていました。

これはどうしてなのでしょうか?
結局、「佐野乾山事件」で主張された贋作説は、乾山をよく研究したことのない人たちが個人的に抱いている「乾山像」と違うから贋作である、ということを声高に主張していただけ、ということを示しているように思えます。


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