「乾山」って何?

*現在、「佐野乾山」は贋作とされていますが、そもそも「乾山」って何なのでしょうか?


*現在、多くの「乾山」が知られていますが、その真贋に関しては明確になっているとは言えません。
*はたして、何をもって「乾山」というのでしょうか。

1.「佐野乾山事件」当時の「乾山」の認識

コメント
森川勇氏 「覚え書」と作品の書体や絵はまったく同じだった。絵の<筆致>が「真正乾山」と違うと言うが、「真正」の基準は何か。「寿老人ノ図 六角皿」や「波に千鳥ノ図八寸皿」など9点以外の乾山はすべて疑わしい。
青柳瑞穂氏 乾山の名は、今日でこそ知られ、その作品も世に多く出て、理解されてきたが、ほんの数年前までは、まったく闇夜につつまれているありさまだった。乾山が、兄の光琳と共に有名であることは、今も昔もかわりないのだが、そのくせ、乾山の作品―特に彼にとって重要であるべき陶作品が、ほとんど無視されていたというのは、専門家たちの不勉強もさることながら、ただ不思議というほかはない。(中略)昔から誰いうことなく、乾山の本物は数点しかなく、それも兄光琳との合作に限られているのだそうだから、やきものの愛好者が、これを一種のタブーとして、手を出しかねたのも無理なかろう。
松本清張氏 現在、新発見の佐野乾山を除いて、いわゆる『乾山』と称せられるものが300点以上出回っていると思われる。が、これが陶磁協会側の会員の手から所蔵家やコレクターに納められたり、また業者の所蔵になったりしている。一体、真正乾山なるものが300点以上もあるものだろうか。これらの乾山ものについての真贋論議が陶磁協会側では全然なされていない。なぜ、彼らの持っているものに協会は批判を加えないのか。会員や仲間のものならみんないいとでも思っているのか。「泥の中の『佐野乾山』」より
林屋晴三氏 佐野乾山の絵がハデすぎるとか、品がないとか、筆が走りすぎているなどという批評はまあ乾山観のちがいということになりますが、それは作品の全貌を前にして論じるほかはないと思うのです。(中略) わたしは、こんどの作品をみて乾山という人は、日本の生んだ最高の陶画家であるということを、改めて認識した − というのが率直な感想です。『芸術新潮』 昭和36年3月号

2.「乾山焼入門」(リチャード・ウィルソン著)での解釈

*次にリチャード・ウィルソン氏の労作「乾山焼入門」をベースに考えて見たいと思います。

乾山焼入門の記述 私のコメント
作品や陶片調査を進めながら、膨大かつあまりに雑多な乾山焼に疑問をもち、二十年余の歳月を文献、作品、遺跡調査、陶法実験、化学分析などに費やした。 研究のご苦労には頭が下がります。
作品調査のためには、日本をふり出しに、アメリカ・カナダ・ヨーロッパへと足を延ばし、可能な限りあらゆる乾山作品を実見する。それを一点ごと写真におさめ、記録にとどめ、目録をつくる。次はその分析である。根気を要する仕事であった。丹念なこの作業のくり返しによって少しづつではあるが乾山要素が浮かびあがる。文献・伝書・科学分析の結果に照らし合わせる。しだいに陶工乾山の意図したもの、窯業体制、乾山焼の総体が姿をみせた。
もはや、従来の「名品これ一点」の考え方はとおらない。陶磁器は大量生産が基盤である。生産者は生産することが目的であり、研究者もより多くのデータを集めることは、結果として、陶磁器のもっとも陶磁器らしい真実をとらえることに近づく。目にする作品は、数あるもののなかの一点にすぎない。が、そこには縦横の糸がからみついている。縦は各時代ごとの変化、横は同時代における振幅とでもいえる。 陶磁器が大量生産が基盤である、というのは同感です。
伝世する3,000点余の乾山銘作品は、工房で可能な製作量をはるかに超えるものである。乾山の年齢や時代の推移、職人たちの協力を示すものか。が、書が違う。画が異なる。粘土や絵具、釉薬もそれに繋がる。もはや乾山ひとりの問題ではないことがわかる。が、乾山という陶匠が実在した限り、必ずや乾山その人でなければならない要素を残していったはずである。そこに真贋を判ずる鍵が潜む。 3,000点の乾山は、乾山一人の製作ではない。工房作品としても多すぎる。多数の贋作が含まれているという点も同感です。

ここで氏が指摘しているのは、

  1. 陶磁器は大量生産が基盤であり、乾山一人で製作したわけではなく工房としての生産であった
  2. 現在、伝世する乾山銘作品は、工房での製作量を考慮しても多すぎる。 ⇒ 大量生産した贋作者が存在する

この本には、下記のように著者が乾山作品と認めた乾山の銘がまとめて掲載されています。



「乾山」銘は、真贋を判定する重要なポイントのはずですが、これだけ多くの銘が存在するのは何故なのでしょう。
単純に以下のような疑問がわいてくるのは私だけでしょうか?

  1. 乾山本人の作品の銘は?
  2. 工房作品の銘が入っていないのか?

これだけ違う筆跡のものを「乾山」と認めて良いのか私にはわかりません。

3.「KENZAN 幽邃と風雅の世界」 MIHO MUSEUM の図録の解釈

*乾山研究の第一人者である竹内順一氏(東京藝術大学 大学美術館長)次のように興味深い一文を書かれています。
(氏のあげた疑問点10項目の中の3項目を選択)

乾山はどこまで生産に関与したか この疑問も,研究者と鑑賞者・愛好家を悩ませる重要な問題である。
乾山焼の研究史からは、乾山を陶工とみなすことが主流を占めていたことが浮かび上がってくる。確かな根拠がないため声高に反論するつもりはないが、乾山自身が「陶器作り」それ自体に関与するのは、ごく間接的なものであろうと考える。あえていえば、窯の主、経営者、今日風にいえば製品開発のプロデュースをするような立場であったのではないだろうか。作品に乾山の「作った手の痕跡」のようなものは、あまり感じられない。角皿の詩讃の書は当然ながら乾山自身の筆跡だが、角皿そのものの成形や焼成は陶工たちの仕事であったろうと思う。
絵付けのなかに乾山の手になる「絵」があるか否かは、乾山焼研究の大きな追究目標であるが、伝世品のなかには確定できるものはない
「乾山焼」の意味は 「乾山」の銘は、現代のブランド名(登録商標)と等しい。したがって、「人名」と解するのは本来正しくないと思う。人名は「深省」であり、『御室御記』『京都御役所向大概覚書』や二條家の日記である『二條家内々御番書日次記』にも、「乾山焼」と「深省」は厳然と区別されている
鳴滝窯発掘調査の行方は 乾山研究にまったく新しい段階が訪れた。
それは、平成十二年(2000)八月から始まった。「法蔵寺鳴滝乾山窯址発掘調査(団長、西川秀敏法蔵寺住職)」である。継続事業であるため、調査の結果は速報資料や一般には発掘担当者のエッセイ(たとえば『淡交』六八五号、平成十四年四月号の特集「発掘された乾山焼」)でしか知ることはできないが、それまでの伝世品資料では考えも及ばない新しい成果に直面している。たとえば、鳴滝窯が京焼のなかでいちはやく磁器生産に挑戦したことが明らかになりつつある。高麗茶碗写、オランダ焼写、安南写、織部焼写など、にわかに信じられないほど製品の「幅」は広くかつ多様であり、従来の「鳴滝窯イメージ」を払拭することを迫っている。発掘当事者の一人、立命館大学の木立雅朗は、「伝世品を中心に作られた乾山のイメージを頑なに固守して、それと合致しない多様な出土品」を「他者の作」(乾山以外の人物の作)とみなすことに強く反論している。つまり、鳴滝窯は「乾山以後の操業や複数時期・複数地点での操業を証明することのほうが困難」なほど、乾山と同時期の十八世紀前半の生産跡であることを断定する。

ここでのポイントは、

  1. 伝世品で乾山の手になる「絵」と確定できるものはない
  2. 「乾山」銘は、ブランド名である。
  3. 発掘調査によって鳴滝窯のイメージは大幅に(幅広く多様に)変更せざるを得ない。

    の3点です。現状の問題点を避けることなく述べています。さすが、乾山研究の第一人者ですね。

4.まとめ − 佐野乾山との関わり

以上をまとめると、

  1. 「佐野乾山事件」以前、「乾山」と言えば乾山自身が製作した陶磁器の事を意味していたが、肝心の「乾山」研究はほとんどなされていなかった。
  2. 「佐野乾山事件」当時、約300点以上が「乾山」として認められていたが、ほとんどが陶磁協会から流れたものであり、その真贋に関する議論はなされていなかった。
  3. 当代一の目利きと言われた森川氏は、「寿老人ノ図 六角皿」や「波に千鳥ノ図八寸皿」など9点以外の乾山はすべて疑わしいと考えていた。
  4. 最近は、「乾山」に関して工房説が有力となっている。ただし、その工房作品の選定の基準は明確でない。
  5. 現状、「乾山」と言われているもので乾山の手になる「絵」は確定されていない。
  6. 鳴滝窯の発掘調査によっていままでの「乾山」のイメージは大幅に変わる可能性がある。


上記の5項には、ちょっと吃驚です。「佐野乾山事件」当時、最大の疑惑だったのが真正の「乾山」と「絵が違う」というものだったはずです。(特に業者達はそう見ていた) もし、竹内氏の主張するように「乾山」の手になる「絵」が確定されていないのであれば、「絵」を根拠に「佐野乾山」を否定することはできない事になります。
仮説として佐野に画工を連れて来なかった乾山が自分で絵付けをしたものが「佐野乾山」である可能性も浮上してくると思います。
加えて、発掘調査の結果にはかなり期待したいと思います。現状の疑問のある「真正品」によって作られた「乾山」の間違った枠組みをぜひとも正常なものに変えて欲しいものです。

蛇足ですが、戦中〜戦後にかけて佐那具陶研では大量の乾山が生産されたとの事ですので、その関わりも興味深い所です。


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