乾山研究の基礎問題


昭和37年1月15日〜20日、宇都宮市の東武デパートにおいて、栃木新聞社主催の「佐野乾山展」が開催されました。この展示会には、森川勇氏蒐集の作品48点と手控帖を展示され、その図録に水尾比呂志氏の論考が書かれています。
国会で佐野乾山事件が論議された後、東博、京博、東大など真作派の多くの国家公務員が発言を自粛させられた後も水尾氏(武蔵野美術大学の教授、学長を経て名誉教授。國華」名誉顧問)は精力的に佐野乾山の真作説を主張しました。
氏の主張は下記のように明確です。

これは、バーナード・リーチ氏が森川氏の佐野乾山を初めて見た時の
「一目見て本物と思うばかりでなく、私が今まで見たなかでもっともすばらしい乾山の焼物です。
というコメントにつながる主張です。私は、このリーチ氏の発言を読んで、正直言って
ちょっと大げさじゃない? 鳴滝乾山よりも素晴らしいということはないだろう。
と思いました。しかし、リーチ氏や水尾氏の本を読むと、鳴滝時代の作品を入れても、佐野乾山の美しさはTOPレベルであるということを主張しています。これは、現在残っているモノクロの写真や数少ないカラー写真では窺い知ることができない実物を見た者しか言えない主張なのだと感じました。


(以下、傍線等は引用者が付けたものです)

乾山研究の基礎問題
              水尾 比呂志
                                           
尾形乾山の名は、日本美術史の上できわめて著名であり、仁清・木米と並ぶ三大陶工の一人と称されて、その作品に対する評価もはなはだ高い。光悦・宗達・光琳と統く所謂装飾画派の一人として、乾山の芸術は独自の境地を拓いたものとされ、書と絵画と陶器という三つの分野を舞台に活躍した江戸中期のすぐれた芸術家であったとするのが、日本美術史における乾山に対する概念である。
しかし、この概念は、概念自体としては決して誤ったものではないと考えられるにも拘らず、それを具体的に遺品に即して明確に解明しようとすると、意外に空虚なものになる。この概念に相当するだけの乾山の実体は、ほとんど不明なのである。第一に、かれの生涯に関する資料は全く乏しく、その伝記は大きな空自を随所に抱えたものでしかない。第二に、かれの名を冠した多量の作品の氾濫の中で、どれを真作として認めるべきかは曖昧なままに放置されている。人びとが真作と信じている作品にも、必ずしも芸術的評価を満足させないものが少くないという事実に、私たちは直画しなければならいのである。つまり、これまで乾山の実質は概念的抽象的にしか捉えられていず、区々な評価と独断的な嗜好によってつねに左右されてきただけ、と言わざるを得ないのが、乾山研究の実状なのである。
従って、乾山を芸術家としていかに把捉すべきかも不明確であった。陶工として考えるべきなのか、画家として捉えるべきなのか、あるいは書家として評価すべきなのか、それら全般を総合して認識すべきなのか、個々の分野を別々に取扱うべきなのか。決定的な論証は何ひとつなく、徒らに伝説的な芸術家として霞のかなたに朧ろに垣間見ているに過ぎなかったのが、従来の乾山観であった。
このような乾山観の曖昧さを、私たちが痛感させられたのは、言うまでもなく、ここ二、三年の間に栃木県佐野地方から大量の覚書と作品とが発見され、従来の乾山の概念では抑えることのできない性質をそれらのものが有していたからである。この、従来の乾山の概念と異なる性質は、新発見の乾山作品を全面的に否定する説を惹起し、不明朗な社会事情もからんで、所謂佐野乾山論争を非学術的な方向に発展させた。しかし、純粋に美術史研究の立場から見れば、到底全面否定論の生れる余地のない重要な美的価値と信憑性をそなえたものであることが明らかなのである。私たちは、冷静に新発見の覚書と作品を検討して、公正な乾山観を樹立し、乾山の正しい美術史上の位置と評価を考え直すことを迫られている。
新発見の覚書や作品の研究におけるもっとも特色ある収獲として強調しておきたいのは、従来の乾山観が、これらのものを律するためにも、また乾山そのものを認識するためにもきわめて狭い不確実なものに過ぎなかったことが明らかになった点に求められる。新発見のものを判断するだけの権威を欠く乾山親しか、私たちは有していなかったことが痛感された点にある。それは、新発見の乾山を研究することによって、私たちが従来の概念や認識を修正して行かねばならないことを意味する以上に、新発見の乾山によって、真正乾山の概念を新しく樹立しなければならないことを意味するのである。ここにこれからの乾山研究の重要性と困難さがひそんでいる。
新発見の乾山が、真作か偽作かという判断は、単に真偽の判定を目的とするものであっては無意味なのだ。私たちは、乾山観をすべて白紙に返して、真偽の判断と正しい乾山観の樹立とを即応させる研究を目指さねばならない。それは、従来私たちが真正乾山と考えていた作品よりも、美的にまた学術的にはるかにすぐれた性質を、これら新発見の品々は持っている、という現実が要請する事柄なのである。
いまや、乾山研究は、画期的な新局面を迎えている。研究者は、過去の偏った概念から脱却して、新発見と従来の乾山を鋭く見つめ、その意義を開明することを要求されているが、研究への足場として、いかなる問題をまず考えねばならないか。また、どのようなことが研究の上で明らかにされねばならないかの、基礎的な考察を、以下に簡単に述べてみよう。


乾山の生涯は、大別して京都時代と江戸時代に分けられる。前期は寛文三年(一六六三)の生誕より享保十六年(一七三一)の江戸下向までで、この京都時代はさらに雁金屋時代と習静堂時代と鳴滝時代、そして丁字屋町時代の四期に分けることができる。しかし、かれが造型活動に入ったのは、元禄十二年(一六九九)の鳴滝開窯からが本格的であるから、作品上の区分としては、鳴滝時代と丁字屋町時代の二期に分けるだけで差支えなかろう。後期の江戸時代は、享保十六年より歿年の寛保三年(一七四三)に至る間で、この間に元文二年(一七三七)から翌年にかけての約一カ年の佐野地方滞在期間が含まれる。従って、江戸時代としては、入谷時代時、佐野時代、そして最晩年の深川時代があることになる。
この乾山の諸時代における動向は、福井利吉郎氏や小林太市郎氏をはじめとする多くの乾山研究家によって、これまでも熱心な研究が行われていたが、一等資料としての大和文華館蔵「江戸伝書」と、滝沢信二氏蔵「佐野伝書」だけの記述では、なお多くの不明の点が残らざるを得ず、ことに江戸下向後の乾山に関してはほとんど何も明らかにされ得なかったと言ってよかろう。その意味で、まず新発見の手控帖十四冊他の資料は、これまでのいかなる資料よりもはるかに重要な内容を随所に含んでいるのである。乾山についてのみならず、光琳に関しての記述も興味深いものがある。佐野手控帖の研究は、乾山の伝記と作品と人間性のあらゆる面において、画期的な進捗を約束してくれるものであって、乾山研究の基礎を固める上にもっとも重要な意義を有している。
この佐野手控帖群の信憑性については、書体の芸術性によって疑問を挿む必要のないものであるけれども、他の乾山の書体との比較や、記述に現れる佐野地方の歴史的事実と人物との照合研究によって、一層確実性を増すであろう。前者に関しては、小西家文書や鳴滝窯光琳絵付の作品銘などが比較資料として重要視される。後者は栃木県二間の現地調査によって確認される事柄で、ことに日光輪王寺の古文書は、多くの有意義な傍証を与えてくれるものである。
言うまでもないことながら、これらの研究において基本となる態度は、佐野手控帖の書体の芸術性をあくまでも信憑性の最大の条件とする、ということであって、他の事実の確認はどこまでも傍証としての意味を持つのである。それは、美術史研究の根本的要件であるとともに、とくに乾山の、書に対する芸術的な精進が、研究者に要求する研究態度であることを強調しておきたい。傍証の確実さによって芸術的優秀性をつねに裏面から裏打ちしてゆく態度、言換えれば手控帖もまた乾山の芸術作品にほかならぬと見る態度を忘れてはならない。
手控帖の研究においては、伝記画における新知見が夥しく見いだされるであろうが、それとともに、書体や文意や文章表現によって示されている乾山の人間性、芸術家としての資質、性格などの的確な把握が期待される。それらは、かれの作品を生み出している根源的な要素であり、また乾山の作品ほど、作者の本性と意欲を素直に表現しているものも珍しいからである。手控帖にメモされている作品と、現実に存在する作品との関係は、よく乾山芸術の生成の秘密を解明してくれるものと思われる。
手控帖の研究において、もうひとつの重要な意義は、この記述が単に乾山個人の行為を明らかにしてくれるばかりでなく、ひろく江戸中期における野州佐野の文化史をも明るみに出してくれるということである。佐野地方が有していた政治的位置や、その文化の状況は、今日の同地方からは想像できぬほどの盛況であったと考えられるが、乾山をめぐる多くの人物の考証と、事情の追求とによって、さまざまな興味深い事実が明らかになるであろう。乾山の佐野滞在も、つまりは佐野文化史の流れに、おけるひとつの出来事として捉えるときに、さらにその意義が正しく考察できるのである。
作陶の技術的な面における記述は、「江戸伝書」などと合せて研究することにより、乾山焼の具体的な解明が可能となる。佐野手控帖は、かれが佐野において陶法伝書を著述したことを記しているが、それを発見する努力も続けられねばならない。滝沢家の「佐野伝書」はおそらく未だ発見されぬその伝書の模本と考えられる。これら作陶技術の研究はまた、現代陶芸家に対する貴重な導きともなるであろう。


佐野地方新発見の作品群は、研究者に対して従来の乾山観を白紙に戻すことを要求している。前述のごとく、これらの作品群の有する美的価値がそれを要求するのである。佐野乾山の美的価値について異議を抱く人びとはその人びとが美しいと信じる作品を具体的に理示して、美に関する意見を開隣しなければならない。
現代は、美的感受性も美的認識力も著しく低下している時代であるから、美とは何かの論争が、乾山作品を足がかりとして展開されることは、大きな意義を有する。新発見の作品群に関して、まず必要なのは、乾山真作か偽作かの問題ではなく、それらが美しいか美しくないかについての判断である
このことは、同時に、従来の乾山作品に対しても通用される。すべての乾山作品は、これを機会に新しく見直されなければならない何よりも美しさが、作品選定の基準である。美しくない作品は消え去って差支えない。美術史は美しいものの歴史なのだから、骨董や蒐集の世界と学問の世界とは、そこにきびしい一線を画するのである。骨董や蒐集の世界では、美しさ以外の諸種の事情が介在することも止むを得まい。しかし、美術史の世界ではそれは許され得ぬ事柄である。
美しさを基準として選び直された作品には、従来真正乾山とされていたものが当然入っているであろう。それらは有力な乾山作品の基準作として、新出の作品群に照し合わせることができる。ただ私たちは、それら従来の真正乾山の性質に固執してはならない。何故ならば、従来の真正乾山はほとんど鳴滝時代のものであるが、この時代の作品は、乾山が未だ十分に自身の芸術を成熟展開させ得ていない面が多く、その真価は江戸時代のことに佐野乾山において発揮されていることを、新出の作品で認めざるを得ないからである。鳴滝時代の作品は、あくまでも乾山の萌芽として取扱われるべき性質があり、やがて完成する美しさの性質や表現様式への手がかりと考えるのが妥当なのである。美しきを条件として択ばれた真正乾山には、新出の作品が圧倒的な数を占めることを拒否できないであろう。
そして、乾山の概念は、新出と従来の両作品を止揚して新しく築き直されるであろう。そのような新しい概念を築きながら、真正乾山を択んでゆくという並行する方法もとられなければならないところに、作品研究の、困難ではあるけれども有意義な重要性があるのだ。乾山の芸術家としての可能性は、飛躍的に拡大されたものとなるであろう。
真正乾山と信じ得る作品を択ぶことは、美しい作品を択ぶことにほかならず、また逆に、美しい作品は真正乾山と信じることができるということが、乾山の場合では現実なのである。真作が美しいということ、美しいものは真作であるということ。これは、すぐれた芸術家の場合には、真作と偽作の差異は美しさの面に隠れもなく現れるという宿命に保証されているし、乾山は、そういう作品を生み出すことのできる天稟を持った芸術家であった。乾山作という保証を得たあとで、その美しさを見ようとする態度は、美の世界に入る資格を持たぬことだ。人びとは、乾山作と認め得る客観的な証拠を欲しがって、美しさに素直に感動することをためらう。美術史家や評論家にすらそういう傾きがあるが、美術作品における客観的な証拠とは、その作品の有する美を以て最高のものとするのが鉄則である。作品研究の基礎問題は、ここにそのもっとも基本的な段階をおかなければならない。
そして、次の段階で、乾山作品の諸性質についての分析がはじめられる。従来の真正乾山と佐野乾山との様式的関係について。乾山芸術の生い立ちとその性質について。乾山の各時代における表現について。実際の技法面における特色について。佐野乾山作品の意味や製作の事情について。作品と手控帖の関係について。新出作品の伝来事情や出所について等々。これらの研究によって、私たちが真正乾山と直観した判断は、次第に確固たる裏打ちをされて客観的絶対性を獲得し、保証を欲しがる人びとをも納得させて行くであろう。また、新しい乾山観というものが、おのずから育ってくるであろう。従来の概念の不足と誤りを見出し、どのようにそれを修正しなければならないかが、自然に結論づけられてくると思われるのである。
気づくままに、作品研究における二、三の問題点をあげておこう。
第一には、佐野乾山の絵付の様式が、従来の乾山の様式よりもはるかに華やかで変化に富むことである。繊細な光琳風のものから重厚な宗達風のものまで、さまざまな様式を持っていて、若年の鳴滝時代よりさらに若々しい感じがする。この作風展開の解釈は、乾山作品の様式展開の問題とともに、乾山芸術そのものの解釈につながる重要性を持っている。書体についても同じことが言えよう。乾山の書はかれの絵と同じく、いろいろな様式で書かれているが、その様式の性質の違いが何を意味しているかの解釈が、乾山芸術を解く大事な鍵となる。
第二には、佐野における異常な制作力の問題だが、これは佐野滞在がどういう性質のもので、乾山にいかなる影響を与えたかを、かれの生涯を通観して分析する必要がある。作品数量の多さという異常性は、簡単に説明がつくが、重要なのは作品の創造自体の異常性を解明することである。成形や素焼を江戸に依頼したことや、手助けの弟子の問題や窯の性質なども重要な検討の対象となろう。
第三に、乾山が用いている諸技法の分析が必要である。陶法伝書と照合してこの分析が進められれば、大きな意義が生じるであろう。
第四には、択ばれた真正乾山と、それ以外の作品との関係である。従来知られている作品にも新出の作品にも美的に不十分なため真正乾山に指示し難かったり、明らかに乾山以外の人の作であることが明確であったりする諸段階があるはずだが、その段階をどのように整理するかは、乾山作品と乾山窯作品との概念を明確にする点で、重要な美術史的意義がある。二代から六代におよぶ代々の乾山、乾山の弟子、私淑者、そして故意の偽作者などを分類する研究が要求されるのである。おそらくもっとも難しいのは、乾山自身の作と考えられるにも拘らず、出来栄えの芳しくない作品の扱いであろうが、これについては他の作家の場合とも考え合わせた上で結論を出す必要がある。
これらの問題点を決する上で、つねに有力な基準を提供するのは、乾山銘と文章の書体である。乾山は幾種類かの書風を自由に駆使した人であるが、どのように書風に相違があっても、乾山の書という一貫する気質は同じである。そして、作品と同じ、美しい書体は必ず乾山の真筆であることを信じてよい。銘の書体も各時代によって変化があるが、美しい銘という基準は必ず乾山真筆を択び出してくる結果をもたらす。そのようにして択ばれた銘の書体を比較照合し整理して行けば、銘自体の年代的変化や、意味を知ることも不可能ではなく、それによって作品研究に益するところも少くないと考えられる。
要するに、乾山は、書と絵と陶器という三つの表現手段を縦槙に活用して、乾山というひとりの芸術家の小宇宙を構成した人であった。乾山研究者は、その相互関係をつねに注意潔く見つめながら進まねばならないのである。


以上のような基礎的な問題の研究を経て、最後に論議さるべきは、乾山の芸術家としての性質と美術史上の位置、その作品の有する美術史的意義と評価、そして正しい乾山観の樹立である。乾山は陶工か画家か書家か、また専門作家か文人的な余技者かの問題や、生涯の各時代の創作活動の意味や、様式的変遷、完成された芸術様式の性質などの客観的な考察がまとめられるであろう。それは、光悦に発して宗達、光琳と続いてゆくひとつの優れた芸術の流れを継ぎ、それを展開させるものとして考えられるばかりでなく、この流れがあらゆる意味で、日本美術の中枢を貫く性質を持つものであることにおいて、乾山の芸術も、最終的には日本の美という観点から評価されるべきものである。かくて乾山研究は、日本の美の追求というかたちを、最後の目標に定めることを要求されるものとなる。そして、諸外国の芸術家と比較論議されることによって、世界の美の歴史にも大きな寄与をなすものであることが信じられるのである。
佐野乾山が発見されてからの三年間、一時は、学術研究を置き去りにして社会問題の観を呈した真贋論争も、今、漸く本来の在るべき研究へと落着きつつある。
私たちは乾山研究会を組織して研究を進めてきたが、まず研究の基盤たるべき文献資料を、ひろく一般に公開する目的で近く公刊することにした。そして、それに基づいて乾山研究を推進したいと望んでいる。この一文は、乾山研究の、もっとも基礎的な問題について述べたものなのである。



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