乾山の生活と芸術
日本の美術18 宗達と光琳

水尾 比呂志





昭和40年12月に発売された平凡社の日本の美術18「宗達と光琳」に掲載された水尾比呂志氏の論考を紹介します。
題名の通り、俵屋宗達、尾形光琳を中心に、本阿弥光悦、尾形乾山を加えたいわゆる「琳派」の藝術家に関して論じています。その中の乾山に関する記載を紹介します。

(以下、傍線等は引用者が付けたものです)

乾山の作品
 乾山の作品製作期間は、鳴滝開窯の元禄十二年(一六九九)から没年の寛保三年一七四三)にいたる四十有余年間に及んでいる。そして、陶器という作品の性質上、絵画だけの画家よりも製作量ははるかにうわまわったと考えなければならない。けれども、このことから、私たちは、世に伝えられている無数の「伝乾山作品」を甘い許容基準で認めてはならないのである。乾山だって人間だから、ときには出来ばえのよくないものも作っただろう、という同情は、ほかの芸術家の場合にもそうであるように、乾山に対して同情を示すことにはならないのだ。芸術家の評価は、かれがどの高さにまで達することができたかによってなさるべきで、どのくらい低い作品もつくったかは問題ではない。美を生むことに生涯をかけた芸術家に対して、私たちがとるべき真剣な態度は、美しくない作品はすべて無視してしまうという非情さであるべきだろうが、乾山にはいまことにそれが望まれる。
 そういう態度によって乾山の作品を選択してゆくと、世上に氾濫する乾山と称せられる多くの作品は、従来確かな基準作と信じられていたものも、再検討をしいられるようにな
る。たとえば八橋図、花寵図は、その画法の不自然さや出来ばえの鈍さによって、乾山の基準作の位置を再検討されざるをえないと思われる。

鳴滝時代
 さて、乾山の鳴滝時代は、光琳絵付げの作品によって開始される。この光琳絵付けの作品は、鳴滝開窯の元禄十二、三年ころのものと、十年ほどのちの正徳初年(一七一一 〜)のものとの二種類に分かれる。それは、光琳の画風と落款によって推定できるのであって、図版にあげた寿老人図六角皿(図36)は前者の代表作、ほかに波干鳥図角皿(挿61)が知られている。後者には黄山谷看鴎図角皿(挿60、74)や十枚一組の人物花鳥の絵変り角皿かおり、図版にはそのうちの竹図角皿(図4)をあげてある。これらはいずれも光琳の絵を乾山の書や皿の縁の模様とともに鑑賞するもので、乾山自身の陶工として陶画家としての資質を知ることはできない。ここでは乾山は、このような新しい焼物の形式を考えたデザイナーとして存在している。
 しかし元禄十四年(一七〇一)、光琳は法橋となって間もなく江戸へ下る。鳴滝窯は乾山ひとりで運営されねばならなくなった。もとより日本最大の陶画家となる素質をもった乾山は、光琳ののこしてくれた下図や、みずから考案した絵付けによって、しだいにかれ独自の陶器の世界を切りひらいてゆくのである。
光琳の弟子であった渡辺始興が絵を描き、乾山が書をしるした皿もあるが、かれ自身の作品としてあげねばならないのは、絹絵の滝や梅を絵付けし、詩を賛した茶碗であろう(左図)。これらは、水墨画における乾山の画技が、光琳よりははるかに漢画風な味をつよくもつもので、まだ大和絵との融合というのちの様式を成熟させていないことを示す。
しかしそのために、乾山の持ち味の大きな要素である豪健な気風がかえって溌刺と躍動しており、いかにも隠逸の文人の気概といったものを感じさせる。書体もややかたい唐風なもので、まだ自由な装飾体を生みだすにいたらぬ一本調子なまじめさがある。
 この鋳絵の技法とともに、仁清から伝授された色絵の技法を、いろいろと研究し工夫した乾山独自の豊麗かつ温雅な味わいの陶器が作られた。古来名品の高いやり梅の香合や、絵変りの上器皿などをはじめとして、茶碗、水指、香合、杯、皿などのいろいろな形に、さまざまの技法を試みたものと思われる。大和絵風なものばかりでなく、オランダ写しとか交趾、スンコロク、絵高麗写しとかの作品もつくられた。それらは、乾山の研究意欲の熾烈さをよく物語っていろ。
やり梅の香合(挿76)は、いくつかの類品のなかでもっともすぐれた作品と思われる。型物ではあるが、香合の形やつまみのぐあいに豊かな感覚がこもり、陶工としてのかれの弱点ともいうべき造形性がかなり満たされている。銹絵と白で絵付けした梅はふっくらとかおるような花を香合の全面に咲かせて、小品ながら気分の大きさをただよわせだ佳品といえよう。

 百合の向付(左図)は、素朴な充実感にあふれる乾山初期のひとつの代表作である。形の質実なすこやかさは乾山の大きな特色であるが、無造作にひいた花芯の線もかれの人柄をしのばせる味がある。
 かわせみと蓮を浮きださせた黒楽茶碗(挿77)と、豪宕な水墨風の滝絵茶碗(図38挿117)を鳴滝時代の作品と考える理由はともにそこに、若い乾山らしい意気と未完成の技とがあるからだ。黒楽は、楽家に遠慮して、その製法も伝書に記さなかった乾山だが、みずからの楽しみとしては、おそらく光悦を念頭においていくつかを焼いたにちがいない。滝絵茶碗の滝と書は、梅を描いた鋳絵の茶碗(挿118)と同じく、やはりこれからの乾山の重要な出発点となっている。
 総じて鳴滝時代は、乾山芸術の創生期である。かれの意欲は、ときには意あまって力足らずとなることもあったろうし、失敗作も少なくはなかったであろう。けれども、鳴滝乾山と称される数多くの遺品に対して私たちのとるべき態度は、最初に述べたようなきびしい美的基準によって真にすぐれた作品を選びだし、乾山が何を創ろうとしたかを十分考えながら、その到達しえた高さを評価することでなければならない。その意味で私は、鳴滝時代を従来のように乾山の最盛期とみる見かたを保留しておきたいと思う。

 乾山の芸術家としての性質が鳴滝窯を長続きさせなかった、というのはおそらく事実であったろう。正徳初めの作である黄山谷看鴎図角皿の裏にしるされた、あの意気天を衝く
ばかりの銘文「大日本国陶者雍州乾山陶隠深省製于所○尚古參」(挿74)は、焼物商売として始められた鳴滝窯が、年を経るにつれてますます乾山の芸術意欲の実験室化していったことを物語る。家計の維持どころか、借財も少なくない状態に追いこまれたであろうことは想像に難くない。
 黄山谷看鴎図角皿裏のや福禄寿図角皿裏銘文中の、乾山と深省という書体に近似した落款を持つのが、松絵茶碗図(図37)である。茶碗に松を絵付けする下絵のつもりで描いたのであろうが、可憐で詩情あふれる作品となっている。おそらくこのような絵付けを持った茶碗が、鳴滝時代の末頃に実際に作られたものと思われる。金泥で枝を描いているところから察すると、金泥による絵付けも試みたのだろうか。しかしそのことよりも、この絵は落款から推して、鳴滝末期の作と考えられるから、貴重な作品といわなければならない。小品ではあるけれども、現在ではほとんど唯一の格調ある京都乾山画だからである。

丁字屋町時代
 丁字屋町時代の乾山作品は、私たちの美的感受性に訴えてくれるものがはなはだ少ない。一般向けの日用食器類に、かれのデザインが流行して乾山焼が普及したことは、乾山にとっては不幸であった。かれは粟田口や五条坂の窯元の注文に応じて、気の進まない意匠も描かねばならず、精魂こめた一品製作は無理になった。ことに光琳を享保元年(一七一六)に失ったことは、乾山の芸術意欲に大きな痛手を与えたと思われる。したがって、沈滞した丁字屋町時代の作品は図版には掲載しなかったが、瓔珞文長角皿(挿78)や緑地白抜梅丸皿の一組などは、乾山の面目を保つ限界にふみとどまった作品である。この限界内に位置するものはほかにもかなりあると考えられる。

江戸時代
 さて、享保十六年(一七三一)の江戸下向は、その理由はなんであれ、乾山にひとつの転機をもたらした。輪王寺宮公寛法親王のおかげで、入谷に窯を築くことのできたのはしばらくしてからであったろうから、その間かれはもっぱら絵を描くことが多かったと考えられる。もっとも、入谷築窯後、また下野の佐野への一年の旅のあとでも、乾山は盛んに絵を描いている。現在、京兆とか華洛とか平安城とかの字を冠して、年齢をしるした落款をもつ作品がかなり残っていて、真蹟とみられるものはそれほど多くないにしても、その存在は江戸における乾山の絵画製作のあとを示唆するといってよい。元文二年(一七三七)、乾山が佐野滞在中の江戸の大火は、それ以前の乾山作品を多く灰燈に帰せしめ、またその後のたびたびの災害によって、江戸におげる乾山の作品は、絵画も焼物もともにほとんど消滅したのであろう。それが、この期間のすぐれた作品の空白という現状をまねき、佐野滞在中の製作を突然変異のように印象せしめている理由のひとつなのである。しかし、それにもかかわらず、私たちはかれの江戸における製作として、いくつかの作品を指摘することが可能である。
 そのひとつは椿の絵だ(図27)。可憐な花を開いた一本の小さな椿の木を、まことに淡々とした筆致で描き、紫翠老漢深省写(挿120)と款してある。この絵は、乾山が漢画の筆法を十分に和風にこなした自由な画境に達していることを示し、宗達の水墨画にみられるような豊かな大和絵の情感を盛りこんでいる。墨の調子といい、葉脈の線描といい、もはや鳴滝時代のかたさはまったく姿を消した悠々たる描法に熟して、本格的な乾山の画境の展開を見せてくれるものだ。落款も筆意十分であって、乾山の晩年の書体の基準とすることができるであろう。
 他の一点は絲瓜図(図26)である。これは椿図よりややあとかと思われ、自在な筆墨の動きは、宗達の豊潤さと光琳の鋭さをあわせもつみごとな作品で、おそらく入谷に窯ができて本焼も可能となった享保末年の製作と考えられる。鳴滝でつちかわれ、丁字屋町で沈潜した乾山の芸術が、ようやく完成に近づくのをまざまざと示す名品であって、筆技の老成と意欲の若さとがこのように渾然ととけあっている作品は例が少ない。たとえば雪舟における天橋立図のごとき意味をもつものではなかろうか。これらの作品の存在によって、私たちは、かれの佐野におげる製作とその様式の必然性を確かめることが可能になるのである。

佐野乾山
 佐野乾山は、すでに早くから佐野伝書と数点の作品が紹介されていたが、それらは乾山自身のものとはいいがたく、佐野滞在の事実だけが認められて、製作活動の実状や期間は不明であった。最近、大量の作品と手控帖(挿80、81、85)が発見されたことによって、ようやく全貌が明らかとなりつつある。
 佐野における一年余の滞在のうちに、乾山はおそらく入谷でやっていたであろう種々の技法を、ほとんど網羅し駆使した製作を行なっている。いわば乾山芸術の集大成がそこにあり、絵も書も、漢画風と大和絵風とを止揚した乾山陶画としての完成を示している。それは、細心な写実を根底にもってなしとげられた装飾画であり、装飾画でありながら自由奔放な情感をほとばしらせる文人画でもある。
 図版に掲げたのは、いずれも乾山得意の技法を代表する優品である。椿模様深角鉢(左図)は、にしん鉢と呼ばれる会津本郷窯製品の形をとって、総体を緑で塗りつぶし、蝋抜によって椿模様を白と黄と赤で色づけした豪快な作。蝋抜の技法は乾山がしばしば試みているものだが、その効果が鮮烈に発揮されているのはこの品をもって最高とする。緑の塗り味も複雑な変化をもち、現代的な造形意匠として私たちをひきつけるのである。



 蓮図角皿(左図)は、墨絵のなかの代表作である。いうまでもなく、宗達の蓮池水禽図に私淑した作品で、他にそっくりそのままの図柄のものもある。「寂滅浄心」の字は、美しい乾山の筆跡のなかでも、ことに装飾感と情感とを兼ねそなえたみごとな字で、蓮の構図とのつりあいも完璧だ。乾山は、佐野の招待主たち、つまり佐野の町衆たちのなかで須藤杜川をもっとも敬愛したことが、手控帖に明らかにうかがえるが、杜川へ贈るための作品は、それゆえ、いずれも香り高い出来ばえを示している。この皿もそのひとつと思われる。
 あざみの茶碗(挿79)は、可憐きわまりない作品である。茶碗は数多く作られ、その絵付けの技法もさまざまたが、この絵は藍で一輪のあざみを描いただけのもの。いかに乾山が野に咲く小さな花を愛し、その生命をくみとっていたかが、この絵を見るだげでも十分にわかるだろう。これはかれの詩心のひとつの結晶である。
 

紅白梅の鉢(左図)は、まさしく元禄の艶麗と乾山の詩情とを融合した傑作といってよい。その紅白の梅の美しさは数ある乾山の梅のなかでももっとも美しい。光琳には見られぬ、梅の精とでもいうべき生命感があふれている。乾山はくりかえし梅を描いているうちに、みずから梅の精に転生したのではないかと思われるほど、この鉢は愛らしく美しい梅で飾られている。中に「雅親」の大きな字が書きこまれ、この鉢の感じをいいあらわしているようだ。


 乾山の作品は、以上のような、書と絵と焼物の総合的な結合によって成立している。これは他のいかなる芸術家もなしえなかったかれの独自な世界である。その世界に一貫して、自然への共感と花に対する愛情を乾山は表現しつづけてきた。書も絵も焼物も、かれの詩心の偽りのない詠い手として、この世界で諧調をかなでている。純粋な詩心はつねに私たちにじかに伝わってくるものだ。技術や技巧のたくみさは、一時は人の眼をくらませてもすぐに褪せてしまうが、乾山の純粋な詩心は永久に私たちを魅了しつづけるであろう。



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