バーナード・リーチの「乾山」

七代乾山の見た「佐野乾山」



まるで佐野乾山の本


【目次】
第一章 本阿弥光悦
第二章 俵屋宗達
第三章 乾山と光琳
第四章 佐野乾山
第五章 乾山佐野手控帖
第六章 江戸伝書と佐野伝書
第七章 乾山派の人びと


【図版】黄色バックはカラー図版、 佐野乾山(青字)の比率の大きさが分かります。

本阿弥光悦 白楽茶碗 「不二山」 伊勢集断簡 石山切 光甫 本阿弥光悦像 赤楽茶碗 「雪峯」 黒楽茶碗 「七里」
黒楽茶碗 「時雨」 光甫 黒楽茶碗 「寒月」 秋草蒔絵謡本箪笥 船橋蒔絵硯箱
俵屋宗達 伊勢物語色紙 芥川図 御物扇面貼交屏風 平治合戦図 宗達絵光悦書 新古今集色紙 宗達絵光悦書 鹿下絵和歌巻 伊勢物語色紙 観月図
牛図 鴨図 鶏図 蓮池水禽図 鴛鴦図
葦鴨図衝立 宗達絵光悦書 新古今集色紙 宗達絵光悦書 新古今集短冊 宗達絵光悦書 鶴下絵和歌巻 宗達絵光悦書 新古今集色紙
尾形光琳 団扇 龍田川図 八橋蒔絵硯箱 竹梅図屏風 扇面貼交手筥富士山図 紅白梅図屏風
秋草図団扇 中村内蔵助像 三十六歌仙図
尾形乾山
(青字は佐野乾山
蓮にかわせみ黒楽茶碗 菊水白磁飯碗 紅白梅色紙皿 流水四君子角皿 公子垂釣桔梗皿
紅白乱梅角皿 山水図扇面 流水手桶型水指 滝山水茶碗 滝山水茶碗(銘文)
光琳絵乾山作 寿老人六角皿 光琳絵乾山作 波千鳥角皿 椿図 梅図 梅茶碗
橋に鳥色紙皿 花籠色紙皿 杜若扇面皿 蓮池香炉盆 龍田川扇面皿
椿角皿 紅白乱梅桔梗皿 柳に鳥扇面 波千鳥角皿 流水茶碗
桔梗丸皿 葡萄に牡丹菓子鉢 八橋角皿 菊角皿 梅に流水角皿
牡丹角皿 葡萄茶碗 杜若茶碗 薊茶碗 竹茶碗
松茶碗 桔梗茶碗 雪笹角皿 朝顔角皿 滝角皿
佐野手控帖 佐野手控帖 佐野手控帖 佐野手控帖 佐野手控帖




●篠崎氏の佐野乾山

乾山の名前は、東京から北西に約80マイル離れた栃木県の佐野という土地と、長い間縁由があった。このことは、1942年に篠崎氏が「佐野乾山」という小冊子を出すまで、確かめるべき記録が知られなかった。その本には、郷土史家丸山瓦全氏が、佐野の近くの氏家町の滝沢家に今なお所蔵されている、「佐野伝書」と呼ばれる資料を発見したことが述べられている。この「佐野伝書」は、乾山の晩年に佐野で書かれたことを意味していて、彼の師仁清からずっと以前に与えられた陶法記す、有名な「江戸伝書」という信ずべき書物も、佐野で完成されたに違いない。
前述の篠崎氏は、親切にもその小冊子の写真を私にくれて、彼や滝沢氏が佐野で乾山を作ったと信じている本焼や楽焼の蒐集品を見せてくれた。大変興味あるものであったが、私はそれらが本物であるとは信じなかった。
1940年、丸山瓦全氏は、乾山に対する興味が増したので佐野地方の探索を始めた。その後、私が十年前に佐野の近くで会ったことのある篠崎氏が調べたのである。氏は学校の校長で、1942年に佐野乾山に関する最初の本を出版した。そのなかで、乾山が釉法と技法について書いている覚書、すなわち伝書を発見した、と述べている。この篠崎氏は素人好古家で、彼の発見は専門家に認められたが、調査は不完全であった。不幸にも彼の陶器鑑識眼はあまり良くなく、見出したものを真作だと信じてしまったのである。氏は現物を私にも見せてくれたが、私も他の人たちもそうとは思わなかった。篠崎氏は、近在のあちこちの家にある乾山と銘した陶器を知っていたが、それらは乾山の弟子の作であるとみなしていた。滝沢氏は裕福な蒐集家だが、氏もこれに同調した。私が見たのは、実は彼の蒐集品であって、彼も篠崎氏も、これは本物の乾山の陶器だと信じていた。解釈が間違っていたようだ。そして、その中に楽焼でなく本焼きのものがあったことは注意されなければならない。と言うのは、その後発見された日記は、乾山は佐野で本焼をしなかったことを述べているからだ。これらの品は、業者が、甘い買手を見つけた時、佐野にもたらしたものと思われる。この判断の誤りの結果、佐野の他の陶器(現在森川氏の所有に帰している)の所有者は、こんなものはたいした価値はない、という結論に達したのであった。事実、「佐野乾山」という言葉が、業者の商売で完全に悪い評判を得たのは、ある程度、これらの事情によるものである。



●佐野乾山との出会い

1960年のある日のこと、前に私が言及した林屋氏が、東京のある骨董屋で、帰り際に店主から、「それはそうと、乾山と書いた焼物が、店に三つ四つきているんです。見て頂けませんか。」と言われた。林屋氏は、その品物と佐野で以前見たものとに差異があることを認めたが、乾山真作とはどうも信じられなかった。それでも、京都から上京してきた森川氏に次の時に電話したのである。私はこの店主と会って、自分でいろいろ尋ねてみた。その話によると、店にきた森川氏は、長い間驚きをもって無言で現品を見ていた。やがて、息をつき、ただひとこと、「いくらだ」と言った、と言う。店主の名は、芝の米政である。
森川氏は、それらが美的に信じられるという主な理由で
、本物でなければならないとの結論に達した。家に帰り、父親にその話をした。父は有名な茶人であるが、彼の言葉を信用しなかった。「そんなものに夢中になれるとは、お前はなんと馬鹿なのだ」と言ったそうである。しかし、息子が持ってきた半ダースの矩形の深皿と茶碗一対を見ると、彼も驚き、それらが本物であることを信じたのであった。

1961年の12月、五回目の日本訪問も終に近づいていた頃、私の助手の水尾君(注:水尾比呂志氏)から、栃木県の佐野に於いて、七十五才の乾山が作ったと思われる、三冊の手控帖と百を越す陶器が発見された、という知らせがもたらされた。これらは、新発見だと言うのである。間もなく、京都にきて、出来れば富本憲吉氏と一緒にそれを見、日本を去る前にそれについての意見を述べてもらいたい、という招きを受けた。
率直に言って、七年前に見たものから判断して、なにか非常に重要なものが見出されるとは期待していなかったのだが、水尾君の言からして、私は最後の時間をさいても調査する必要がある、と感じとった。
京都に着くと、私は直ちに富本氏に会いに行った。しかし彼は懐疑的で、客として、意見を述べることを断らねばならぬような、また、否定せざるを得ないような困った立場に陥らないようにと、一行から脱出した。彼は笑いながら、「君は外国人だから問題ないよ」と言った。東京から御足労を願ってお連れした、昔の私師匠の娘さん尾形奈美さんとともに、嵐山へ到着すると、佐野の新発見作品の所有者森川氏の出迎えを受けた。京都博物館の館長
と、その付添いの方と、林屋氏が、食事に加わった。

その時に陶器が持出されてきたのである。その美しさと雄渾さに私は全く驚かされた。作品は次から次から現れ、また、手控帖も出されると、私は食べるのを中止した森川氏が食卓越しに私を見て言った。「さて、いかがでしょうか。」私は彼を顧みて答えた。「一目見て本物と思うばかりでなく、私が今まで見たなかでもっともすばらしい乾山の焼物です。」すると森川氏は座から飛上り、食卓を廻って私のそばへきて、目に涙を浮かべながら私の手を握った。森川氏は、従来認められてきた乾山の陶器に対する先入観に一致する、何らかの新しい発見を期待したらしい美術商たちのほとんどに、空しく落胆させられていたからであった。この陶器は、私が見たことのある乾山の初期の鳴滝作品の多くのものより、豊かで活気があった。大いに興奮して、私たちは、手控帖−と言うよりは日記と言った方がいいかも知れない−や多くの陶器の底に書かれている銘文や、土や絵具や釉薬に目を向けた。前に述べたように、私は日本語の読み書きはできないが、乾山の筆跡には親しんでおり、それを模倣するのは非常に困難なことであることは知っている。すばらしいものだ。陶器の絵にある力強さと自由さをともに持っている。

大きな部屋の、私たち七人の間の床一杯に、約70点の陶器が並べられていて、少なくとも五人は、今私たちは、陶芸史上最も偉大な芸術家の1人の、新しく発見された円熟した作品を見ているのだ、という自信を持っていた。
私の師匠の娘さんの奈美さんは疑っていた。意見を言わなかったもう1人は新聞記者であった。しかし彼は、森川氏がいかに美術商たちから扱われいるかについての話を聞き、また、危険にさらされている金額(新発見の乾山作品が真作となることによって生ずる従前真作と称されていた作品の市場価格の変動を意味している)を知ると、同氏に、しばらく国外に行っていたらどうか、と真剣に忠告した。
陶器は、矩形の食器皿、茶碗、花瓶、円い菓子皿などで、すべて、楽焼である。絵は、黒、朱、青、緑、黄、桃色、青みがかった緑で描かれ、江戸伝書、佐野伝書と一致し、六代乾山から私に伝えられた色彩と同じであった。また、六個の陶器には、明るいトマト色の赤の釉が使ってあり、明らかに三度目の火に入れたもの(錦窯による上絵付けの手法による)であった。
この色については、その時はっきりした説明が私にはつきかねた。と言うのは、この時代にはこのような色彩は極東では知られておらず、西洋のものだったからである。


続く議論のなかで、森川氏が、これらの品の本を原色版で刊行する計画だと話した。私は、そうなれば私の本の売行に影響があるのではないかと恐れて、はじめ気が沈んだ。けれども私の本のことを話し、競争相手になる代わりに、お互いに助合いたいと頼んだ。森川氏は、即座に、それ以上の悦ばしいことはないと答えたのである。それで、氏が江戸伝書の写真一組を必要としていることを知ったとき、私は自分の持っていた写真を一組送った。森川氏は、きわめて広量な返しとして、所蔵の、乾山の陶器全部とまた書の項毎の写真を送ってくれたのだった。彼はまた、私が日本を立ち去る前、私がもっとも賞賛した茶碗のひとつを贈物としてくれた。私は、ビクトリア・アンド・アルバート美術館へ寄贈するという条件で、これを受け取った。

私たちは長時間話合った。多くの問題が出てきた。何故にこれらの品々が前に発見されていなかったのか。いかにしてそれらは、また誰によって見出されたのか。どうして業者はこれを否認したのか。陶器と手控帖の字は同じ手になるものか。もし私たちの判断が間違っているとしたら、いったい誰が、これらを作り得たのであろうか。等々。私は、そういう問題や他の問題を、ひとつずつ取り扱って行こう。私としては、これらは職人の作ではないと信じられた。職人の仕事は、手法とか、形式とか、模様とかを、共同の伝統のなかで用いるものである。
模作者は、乾山の陶器は何が期待されているかをよく知って作り、書は出来る限り避けるものだ。どちらの場合も、オリジナルな芸術家や工芸家のいっそうの成長と表現をそこに予想するということは出来なかろう。かくして、過去に乾山と同じように偉大な芸術家がいて、絵具も釉薬も手法もそっくり乾山流に作ったか、或いは、信じられないような人物が今日存在しているか、どちらかだということになる。他の説明としては、ただひとつ、私たちの美的判断が間違ったということしかないわけだ。



●その後の佐野乾山

その後、森川父子と林屋氏の三人は、しらみつぶしに、佐野地方を探索する計画を立て、現在までそれを続けている。(中略)
東京に着いて、まず私が一番聞きたかったのは、私のいなかったこの二年間にどんなことが起きたかであった。水尾君の話では、十二個の陶器と六冊の日記が発見されて、計十五冊になり、乾山が佐野で送ったという期間のほとんどが充たされることになったと言う。私の東京滞在中に、もう一冊日記が見出された。乾山が佐野地方から帰江することを記しているこの最後の手控は、他のものと異なって、最近の発見ではない。それは法政大学の岩倉教授の所有で、明治の末の1910年頃、栃木県から移って来た氏の母の実家から彼の手に入ったものである。この手控は、他の手控の保存のよいものと同じく、良好な状況で保存されており、明白に同じ手跡によって書かれ描かれている。然らば、この冊は、これらのどの手控でも、それが最近作られたという可能性を否定するものだ。その上、陶器と手控の字が同じ手であることに疑問はないのだから、書も焼物も、ともの1910年より以前、つまり、問題が始まるよりはるか昔に作られていたということになるのである。これは重要なことだ。何故なら、私たちの反対者の総体的な意見は、最近の偽作だ
と言っているからである。また、歴史家的な熱心な探偵であるとともに、生来、かなりの芸術家であらねばならなかったろう誰かが、五十年前に佐野あたりでこれらを分散したのではないか、というような意見は滑稽千万で、さらに言えば、ファン・メーヘレンのごとき者がこっそりと、なぞという考も笑止である。

陶器と日記の実質的な内容から全く離れても、この最近の発見は、反対者に絶望的な事態をもたらしたと私には思われる。しかし、さらにそれは強まるのだ。私は最初の機会をとらえて、乾山の足跡を再びたどって、佐野地方、すなわち、佐野の大きな町自体や越名や壬生、そして蓬莱山へまで出かけた。同行者は、水尾君と栃木県でよく知られている考古学者の石塚氏であった。私たちは、日記に出てくる乾山の友人の幾人かの墓石が今でも存在している寺々や、墓地を訪れた。須藤杜川の墓は、光明堂の一族の名が刻まれている墓石の間にあった。宝竜寺には、乾山の頃の佐野の代官、松村包休の墓碑があった。乾山が言うところでは、松村包休は、杜川が乾山を佐野へ招くことに成功する前に、来佐をすすめた人である。乾山が佐野にきた時には、松村は死んでいて、会えなかった。けれども松村は、乾山がきたら自分のために香炉を置く盆を作って欲しい、という願いを表明していた。それ故、乾山が最初に作った焼物のひとつがこの香盆で、裏には銘文が満ちている。それは同じ書体、同じ描法であることが判明した。ところが、この代官村松の墓は、一族の墓所には見出されなかった。最後に漸く、空地を作るために墓地の片隅に整理された、古い墓石の山のなかから発見された。石塚氏が山積みになっていた古い無縁仏の墓石をひとつひとつひっくり返して、やっと発掘したのである。その墓石は、今は昔の場所に戻されていて、佐野手控の中に記された乾山の話の確実性を裏付けている。

無疵な乾山の陶器が、かくも大量に突如として現れたのは、確かに不思議であるが、事実は虚構よりも時として奇である。乾山の死後、また、佐野で乾山を授け励ました文化人グループの解消ののち、乾山がそこで作った焼物は次第に分散して、蔵の箱に入れられ、それからずっと、蔵のなかで忘れられ眠ってきて、そんなことに興味のない子孫たちには、それが何なのか認識されなかったのだと思われる。実際、私は佐野にいる杜川の直系の子孫の家を訪れて話をした。彼は、森川氏に譲った陶器を手離したのち、乾山の茶碗一個をなお保存していた。彼は率直でむしろ謙遜な人であって、彼の話は、私の書いたことを確証してくれるものだった。


京都の富本憲吉氏は、手控も陶器も、実物を見なかったのである。私は、英国に帰ると直ぐ、陶器の良い写真を数枚送った。因みに、富本氏の歿後、これらは返送されてきたが、意見はついてこなかった。明らかに彼は自信がなかったのである。(七代乾山という)同じ名跡を分かち合いながら、私たち二人が、同じ事柄で相反しなければならなかったのは、まことに残念だ。私たちが数日を一緒に過ごすことが出来たら、年と病気と名声で少し頑固になっていたとしても、私は彼を説得し得ただろうと信じている。
友人の陶芸家浜田庄司氏は、発見品の信憑性について、もっとも強い反対をした。彼は考えるのだ陶器の装飾があまりにも終始一貫巧妙過ぎ、時には虚勢さえ感じられると。またあるものは形が悪いと言う。私も同感である。が、私は次のように思う。乾山も時には友人の強請に屈して、任されれば自分ではそんな風にはしないと思われるような、形や模様を作ったのである。これは、楽の特徴に合わない明の磁器の形をした花瓶に、とくに顕著に認められる。菓子皿の幾枚かの形も良いとは思えない。それらはあまりにも華美だ。そしてまた、それらの絵は、時には、焼物より紙に描いた方がよいと感じられる。たとえば、他の陶工には見られない方法で、陶器の高台にまで彼はいつも模様を描く。鳴滝ではそうではなかった。成功しているときもあるが、そうばかりではない。これは、陶工ではなく、画家の自由の行過ぎである。だがそれは、彼の経歴から十分に予期される事柄であって、模作者から期待されるものでは決してない。
乾山が職人的な轆轤使いではなかったことは、すべての証拠が示すことである。彼は、生涯を通じて、日本の慣習であり、今もそれが残っているように、轆轤の仕事の多くは人に委託していた。彼は整理し装飾したが、他の仕事は指導したに過ぎない。浜田やその他の批評家は、雁金屋の呉服の背景のなかで育った幼少時代からの乾山の修行を見逃し、或いは気付いていない。彼と兄の光琳は、画家たるべく生まれた。昔のあらゆる模様を知って、単純に不器用にはなり得なかったのである。ただ、兄と違って、乾山はおそらく兄弟の対照性から、生来静寂な人であった。

佐野の発見は、乾山とその作品に対する新しい評価が必要になるほどの照明を、乾山に投げかけている。もっとも鑑別力のある幾人かの日本の友人は、私と同じように、従来乾山作として受取られてきた陶器の多くは実は模作で、その数はかなり多きにのぼると考えている。しかし、付加えれば、私は、今まで本物ではないとされてきた他のものは、本物であるが、必ずしも乾山の最上のものではない、と確信している。これらは佐野の作品を詳しく調査した結果、そのいくつかに見いだされる乾山自身の充溢した様相に、私の眼は開かれたのである。佐野においてよく使われた形式は、乾山の性質のある性状から発したものに違いなく、佐野の作品以前に、このような傾向を示す前例があったのではないかと思われる。
陶器を焼くとき、温度が低ければ、焼ける色の範囲は広くなる。乾山は佐野の楽焼で、この事実を最大限に利用した。彼は、青、緑、黄、赤に凝った。覚書が記す通
り、釉薬は薄く透明で、その効果は、いくつかの作品にほとんどけばけばしくなって現れている。その上、大部分のものは、使用による損耗をこうむることなく、それ故にほとんど窯から出したてのように輝いている。しかし、こうした批評にも拘わらず、乾山の芸術家としての、また陶工としての名声は、佐野の発見によって高められ、また人間として、彼は、私たちにより親しくなるであろう。




●佐野乾山の真実性

さて、今度は、真実性に関する技術上の証拠について私の意見を申し述べよう。佐野地方の、赤味をおびた砂っぽい土の難しさと、その扱い方について、乾山が書いたところを訳したのち、私は、同じ栃木県の浜田の益子窯で暮し仕事をした。そしてこの土のことがよく判り、乾山のそれに関する記事が全く正しかったことを確かめた。浜田は、しばしば、この地方の白い土は、質の悪い磁器胎土のほかは役に立たない、と私に語った。木の灰で粘土を漂白するという乾山の最初の考は、彼の家業の呉服商雁金屋の伝統から覚えた染物師の技術である、ということが判った。西洋を知らなかったため、乾山には判らなかったことだろうことは、この方法は陶土には適用出来ないということであった。彼は最後に、「白い粉」を使用してこの難事を克服した、と言っている。忘れていたことが、私の記憶のなかで甦った。私の師の六代乾山が、鉄の料理鍋の内側に使われる琺瑯の「白い粉」は、楽の不透明な白い釉薬として使える、と言ったことが思い出された。師匠にその釉をいくらか貰い、五十二年前に試したことがあったのだ。興奮しながら、私は、森川氏の有する佐野の作品を調べる最初の機会を得た。そして赤い素地の上の白は、はじめに私が考えた白い土を流したものではなく、白い釉薬であって、さらにそれには、錫の酸化物が引き起こす特殊な矩形の貫入があるのが判った。

ところで、酸化錫は、白色不透明の錫釉と呼ばれていて、鉄鍋と同じく、マジョリカ焼やデルフト焼に使用されていた。その使用法の知識は、ポルトガル人かオランダ人によって日本へ紹介された可能性がある。事実乾山は、オランダのデルフト焼のひとつを模作している。私が嬉しかったのは、覚書と陶器の真実性を証明する技術的な証拠が、ここにひとつあったことで、他にこれに気付いている人は誰もいないのである。さらに、佐野の陶器の表面をよく調べてみると、乾山が数点の作品に使った特別の明るいトマト色の赤も、絵具や土ではなく、釉薬であることが判明した。私は、それは赤い粉ガラスかガラス質の粉だと考えている。知っている限りでは、このような色は、焼き物にはこれ以前使われたことがないが、同じ色合いの赤色ガラス玉は早くからあって、日光の輪王寺にその例が見られる。乾山は、常時これらの粉ガラスかガラス玉を使用していて、江戸でそれを買っていたと、彼の陶法控に記している。森川氏所有の陶器の素地が、乾山の手控の解説と一致していることも、私を見出した。江戸の土であるか、或いは江戸と佐野の土を混ぜたものであるかは、常に見分け得る。江戸の土は佐野の土より白く、きめが細かいのである。

石塚氏の調査のなかで、一月十四日という例祭の日付が、現行の三月十四日の祭の日付と一致しないことが発見された。石塚氏は、乾山が壬生を訪れてから二十四年後に祭の日が変更されたことを、土地の古文書から見つけ出すまで、困惑したのだった。だから、これまで穿鑿されなかった事柄に関しても、乾山の手控は正しいことが判ったのである。書と絵が佐野で作られたとしても七十五歳の老人の作ではない、という幾人かの批判は、正しくない。レンブラントとターナーは、老年期に彼等の最良の作のいくつかを描き、七十九歳の私でさえ、なお弱っていないのだ。乾山が描いた絵は、江戸へ帰ってからのもだが、まだしっかりとして明晰である。

乾山が使用したある漢字は、当時一般に使われていなかったという反対意見が、一時流布されていた。しかし、同時代の作家がそれを使っていた実例が、その後発見された。
佐野手控は、以前岩倉教授のもとにあった最後の一冊を除いて、すべて森川氏の所有になっていて、森川氏の知己以外は、それらを研究したり、陶器と比較したりする機会を誰も得ていない。水尾君を含む専門家のグループは、研究会を組織して、1966年に手控全部を公刊することになっている。この研究会は、佐野乾山問題の調査を目的としてひろく公開されたのに、反論者は誰も出席していないことは注目に値する。




(Since 2000/06/03)

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