渡邉達也の「真贋 尾形乾山の見極め」

「佐野乾山」を追い続けてきた研究家の名著

第12章 佐野乾山を贋作とした要因



第12章 佐野乾山を贋作とした要因

世界的な陶芸家で乾山研究では日本の研究家も足下にも及ばないバーナード・リーチ氏によって、たまたま古美術コレクター森川勇氏蒐集の新発見における佐野乾山作品を検討し、従来の乾山研究を変更せざるをえなくなる程の絶品と折紙をつけた。朝日新聞がその様子をコラムの「青鉛筆」欄に紹介したことから、乾山研究の第一人者の発言とあって、直ちに読売、毎日などの各紙がこぞって、この新発見乾山を大ニュースとして報道し、社会面を賑わした。
しかし、その報道に付加されたのが、一部の人による贋作との批判的な見解を、興味をそそるように、とりあげたのは毎日新聞であった。したがって当初から最も大切な学術的な研究課題から離れてしまい、むしろ興味本位の贋作説へと問題化し、そのあげくは”事件”という聞き捨てならない見方や方向まで、発展させてしまったといっても過言ではなかった。(中略)
読売新聞に一歩先を越された毎日新聞は、まだ調査の段階にも入っていないのに、贋作説を匂わす記事にして報道したのは如何なるものか。どうみてもフェアな行為ではないように思われたのであった。
(贋作説の)急先鋒に立ったのが、日本陶磁協会という団体とそれに関係する人たちであった。この日本陶磁協会は、日本における陶芸市場と密接な関係にあり、大きな発言力を持っていたのである。その実態は陶芸研究家、美術商、陶芸家たちの総合集団で、相互の扶助機構といった方がよいだろう。
その当時、日本陶磁協会理事長の梅沢彦太郎氏を始め、真向から贋作説を表明した人に、東京国立博物館・田中作太郎氏、陶芸家・荒川豊蔵氏、山田多計治氏、篠崎源三氏、加藤藤圃氏、佐藤進三氏、佐藤雅彦氏、小森松庵氏、久志卓真氏、奥田直栄氏たちは、積極的にそして執拗に贋作説を公表して憚らなかった。それも全く新乾山の発見
についての調査も、研究もしていない状態においての発言であるから、これ以上の無責任なことはない。


では一体なぜ、たいした反証の裏づけもないまま、安易に贋作説をとったのか、それは、つまり単なる中傷以外のなにものでもなかったのである。これからそれらについて書いていくことにするが、疑問なのは日本陶磁協会が、贋作説の拠点になったことである。
さて、新発見の佐野乾山がもたらした影響について、考えられる諸事項をあげてみると

1.従来における乾山観の見直し問題が浮上する。
  1. 佐野乾山とされている作品の再検討が必要となる可能性。
  2. 1.により、場合によっては旧乾山作品の総合的な再検討を行わなければならないかもしれない。
2.昭和17(1942)年、栃木県文化財審議委員長の篠崎源三氏(佐野市出身)は、乾山が佐野滞在中に作陶した作品3点及び手控「陶磁製方」(栃木県氏家町滝沢家蔵)を発表して、佐野乾山の実在を証明し、美術界からその発見者として認められた。そして、自分の所有する3点と合わせて、佐野乾山は6点しか現存しないと力説したその説が覆され、佐野乾山研究の第一人者として、権威の失墜を恐れたこと。この佐野乾山発見の功績について、その後、篠崎夫人が「篠崎は日本陶磁協会にだまされた」と、述懐していたという話がある。しかし、発見者としての功績は少しも変わらないのだが。懸念しすぎた篠崎氏であった。


3.佐野における篠崎説が否定されることは、日本陶磁協会にとっても不都合な事態を招くことにもなり、いやが応でも新発見の乾山は、贋作として否定するように、篠崎氏に働きかけた。
  1. 協会関係の研究家が、真正作品と証明した作品の再検討を要求されかねない心配がある。
  2. 協会関係の研究家が、真正作品と証明した作品の売買(美術業者、美術機関、愛好家など)に関わる諸問題が派生する。
  3. 協会に関わる研究者は、権威が失墜し、その癒着の実態が知れることも起こりうる。
4.日本陶磁協会の傘下にある日本の陶芸界及び陶芸作家は、研究者としての美術評論家や美術業者の存在なしでは、製作も生計も難しい。このような相乗関係にある以上、佐野乾山問題は陶磁協会の意向がより大切で、事の真実よりも自己保全のためには、発言を控えるか積極的に贋作説に同調するかであって、あえていうならば、もしも陶芸家で真作説を表明したとすると(今日までは売れても、明日からは全く売れなくすることさえ可能にできる非情の機関)市場や作家には必ず圧力がかかると思わねばならない。


5.贋作といわれる問題が起こるとは知らずに、森川勇氏による新佐野乾山蒐集の端緒を作ったのは、友人の東京国立博物館技官林屋晴三氏であり、真正乾山と認めた最初の専門家といえる。その結果は、専門家や有識者を二分しての真贋論争に発展してしまい、問題は学術論から離れ、社会的には興味本位の一事件としての印象さえ与えかねない性格を帯びてしまった。(中略) さらに、高津議員は、清水事務官に対し、「今から技官は黙っておれ、論争がはじまっているから黙っておれと箝口令をしいたはず」との質問に「国家公務員だから、限度もあり良識に従ってやるよう、京都博物館館長、東京博物館長を通じて注意した。しかし箝口令をしたことはない」という返答であったが、この注意では明らかに、公務員だから余計なことは話をしてはいけない。ということになり、まともな口封じであって、それ以外のなにものでもない。
したがって、清水文部事務官の注意が、つまりは行政上の口封じとなり、積極的に新佐野乾山真正説を支持し関わってきた、東京国立博物館陶磁室長林屋晴三氏や、「いままでの研究をやり直さなければならぬほどの乾山代表作」と激賞した、京都国立博物館工芸室長藤岡了一氏などは、これを機会に尾形乾山は書いても、こと佐野乾山については全く触れなくなってしまった。東京大学日本美術史の山根有三助教授も、6種7点の佐野手控を調べた結果、「うち一点は後世の”写し書”と思うが、残りはすべて乾山の自筆で、これによって乾山佐野来遊説が確定される。乾山関係の資料としては”奇跡的な大発見”だ」(読売新聞昭和37年)と賛辞を呈したほどであったが、林屋、藤岡両氏が注意を受けたように、山根助教授も同様であって、二人と同じ
ようにその後は佐野乾山には全く触れぬ慎重ぶりで、山根氏はそれが幸いして日本における琳派研究の第一人者となり、日本美術史界の大御所と目されている。



6.落合莞爾著 天才画家「佐伯祐三」真贋事件の真実(時事通信社1997年刊) 第3章 奉天古陶磁の倣造 2 佐那具陶研 の項に次のような記載がある。「佐那具陶研は、木村貞造の資金、甘粕正彦の軍に対する支配力、上田恭輔の古陶磁知識、小森忍の窯業技術の組み合わせた一大古陶磁倣造事業であった。(中略)佐那具陶研には、瀬戸から山茶窯のスタッフが移ってきた。小森の義弟で、窯・釉薬主任の田村清治は大連時代からの片腕だったし、デザイナー日比野作三も、瀬戸時代の幹部であった。小森の旧友である浜田庄司も手伝いに来て、天目茶碗を作っていたという。周蔵が生前語ったところから憶測すれば、小森の親友鶴田吾郎が焼物の絵付を手伝ったことがあるようだが、それも佐那具窯と思われる。
また、佐那具窯では江戸時代の名工乾山を大量に倣造したものらしい。中略 周蔵は昭和39年10月に他界した。周蔵の死は昭和37年に始まった「佐野乾山事件」が遠因をなすのであるが、そのことは別稿に譲らざるを得ない。」 
以上の記載からして、三重県の佐那具という所の陶磁研究所において、軍部の関与で陶磁器の倣造、つまり贋作をしていたことになるのだが、それも乾山作品を大量に作っていた形跡もあるとのことだし、昭和37年の「佐野乾山事件」にも絡む様相を呈しているとの話だから、私たちがこの問題に関わる以前の、こうした事実を知ると、なまやさしいものでなく、根の深い想像もつかないような軍部関与の事象があり、落合氏によって天才画家佐伯祐三の実
像が明らかになったのと同様に、やがてこの提起された一件も、白日の下にさらされる時がくることを、心から待ち望んでいる次第である。以上のような複雑な様相を孕んでいたことなど、ほとんどの人が知らない真贋問題なのであった。



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