渡邉達也の「真贋 尾形乾山の見極め」
「佐野乾山」を追い続けてきた研究家の名著
第10章 無責任な贋作説を吹聴する人たち
●第10章 無責任な贋作説を吹聴する人たち
乾山は美しい発色を出すための素地化粧などに、乾山独自の大変な工夫があるわけだが、この大切な化粧掛けを、松浦潤氏は自著「真贋・考」(双葉社平成10年刊) 第4章 終わらない贋作事件 ”進化する新「佐野乾山」事件”に、次のように書いているので紹介しよう。著者は昭和37(1962)年に美術コレクター森川勇氏の蒐集による新佐野乾山が真贋問題に発展したことから、当時の贋作説をそのまま鵜呑みにして、研究結果でもない短絡的に発表されたものを信奉し、執拗に贋作説を、さも自己説の如く利用して書いている人物なのだが、丁度、化粧掛けの話になったので、彼の批判文の大意を記してみることにしよう。 松浦潤氏は楽焼において 「素地釉下彩のための”白化粧”を実施するが、その技法は白土で着彩した後、つまり色絵具で描いた上に釉薬をかけて焼成することである。これは乾山技法の代名詞になっているものであり、何も判らない素人を騙すのに最もやり易い方法で、これは別に佐野乾山に限らず、乾山の贋作はこの方法が多い。 そして、この方法で素地を白土で全体を被覆してしまうので、贋作者にとっては都合のよい方法なのである。この方法は、つまりあばたもえくぼに白化粧し見えなくする。そして、使用された土をみれば、大方の専門家はおおよそ焼物が判るから、白化粧という方法は、素人を欺く贋作者にとっての常套手段であって、手っ取り早く踏襲されている技術とされている」 と、松浦氏の贋作者が必須の条件で実施する”化粧掛け”についての一文を読んでみて、「贋作」ということの印象づけが、如何に上手な書手かと感心させられる。つまり、彼が読者に少しの疑念も抱かせず、そのように思わせる記述はまことに恐ろしい。楽焼(低火度焼成の焼物)による贋作に、化粧掛けの方法は素地にみられないようにする隠蔽法で、常套手段であるという。しかし、化粧掛けすれば、たとえ素地を見せぬ目的となっても、絵付けに芸術性という相乗効果がなければ、乾山作品の場合は全く意味をなさない大切なことに、気づいていない。 |
このような問題に関わりなく、実状を知らない好事家には、松浦論も通用するだろうけれど、この私にはそうした安易な、それこそ人騙しのような俗論は通用しない。なぜならば私は新「佐野乾山」問題発生の昭和37年から、直接この問題のために地元において結成(佐野市の文化財審議委員の人達を中心に)された佐野乾山研究会の壬生代表の一人として「特に森川勇氏に調査を依頼され」、真贋問題を解明するために、森川氏蒐集の手控え内容の実証と、陶器作品の出所及び伝承の確認を、徹底的に実行してきた研究者で、現在でも、ときに真正佐野乾山作品が確認されることを、付け加えておきたい。 その調査の手控は、総て当時の佐野及び他地方に関わる郷土史としても誤りがなく、むしろ新事実の事象などが判明して、非常に文献としても重要なものであり、絶対に捏造が不可能という会としての結論に達した。つまり、贋作説を表明した人達の内容が如何に概念的な見方で、事実に反したいい加減な無責任極まる批判であったかを、つぶさに知ることができたのである。そしてこれらの問題となった佐野乾山に対して、最近になって再び外国人のリチャード・ウィルソン氏(尾形乾山全四巻 雄山閣)なる人物や松浦潤氏が、実しやかに、昭和17(1942)年に佐野乾山の発見者である佐野市の篠崎源三郎氏の著作「佐野乾山」(窯芸美術陶磁文化研究所)を下敷きにして、これらの贋作が作られたという見解を発表しているのは、まさに噴飯ものの一語につきる。ましてや、佐野地方から作品を掘り出して、三田の古美術商米田政勝氏に売却し、この問題の発端を作った古美術商の斎藤素輝氏が、手控と陶器作品を贋作した張本人と決めつけていることは、一体どういうつもりなのか、どのように考えてみても正気の沙汰とは思えない。 |
この世迷い言が通じない話をこれから書いてみると、実際は新聞の報道で問題となった2月9日より1ヶ月後の3月8日附け読売新聞に、収集家の森川勇氏、売買の古美術商斎藤素輝氏と米田政勝氏の3人は出所先を公表した。特に佐野市の美術商関谷茂平氏20点、藤岡町の文化財副委員長飯塚伊兵衛氏35点、同町長尾善治郎氏35点、その他岩舟、葛生、小山、黒羽の所蔵者から蒐集したという事実であった。 また、翌38年の6月15日には、現地において手控えとの関わりを検討するため、乾山の滞在した壬生町の常楽寺において、東京の研究会員と地元の研究会員、及び収集家森川勇氏と元所蔵者(古美術商の斎藤素輝氏に手控と陶器を売却した)が会合し、寺内の調査と特に所蔵者からの伝承と売却についての説明があり、その状況は6月16日、及び7月27日の栃木新聞に詳しく報道されている。 来県した研究会の一行は、佐野市越名と関係各地を実際に調査し壬生町の検討会となったのだが、ここでその時の調査参加者を記してみよう。田沢坦氏(文化財専門審議委員)、本間順治氏(同工芸部会長)、藤岡了一氏(京都国立博物館工芸室長)、白畑よし氏(同絵画主任)、林屋晴三氏(東京国立博物館陶器主任)、吉竹栄二郎氏(京都工芸指導所加工課長)、林平八郎氏(同陶器室長)、水尾比呂志氏(武蔵野美大助教授)に地元から佐野文化財委員会副委員長山中信一氏、小太刀弥一氏、若林光四郎氏、船渡川福一郎氏、吉田進氏、渡邉達也、石塚青我氏と蒐集家の森川勇氏に、佐野乾山の手控と陶器を売却した須藤杜川の一族須藤清市氏(佐野)、島村源吉氏(藤岡)、柏崎匡己氏(壬生)、脇坂景秋氏(小山)、鈴木源之助氏(黒羽)の五名で、司会は林屋晴三氏で、山根有三氏(東京大学助教授)と町田甲一氏(東京教育大学教授)の二人は都合があり当日不参加であった。 |
ということで、松浦潤氏が如何にその当時の状況を知らなすぎるか、そして知らない上に、調査も研究もせずに無責任な発言を、さも万人の認めるところと、文筆をもって真贋問題を食い物にし、有名人になろうとしているのはまことに惨めな話としかいいようがない。古美術商の斎藤素輝氏が、化粧掛けをして絵付けできるほど乾山作品は安易なものでもないし、現代を代表する日本画家に、手控(素描や文章)を目の前で同じように描写できるものなど一人もいない筈であり、一介の古美術商の斎藤素輝氏ごときに、絵描きの「線引き十年」といわれるほど、線一本引けるようになるには大変なものだから、写すことなど無理な注文なのだ。そのような彼を贋作者と指名するなど、全くのナンセンスで何を血迷ったかという外ない。斎藤素輝氏は、贋作者扱いされるので、腹立ちまぎれに楽焼を試みたが、全く物にならず比較にもならなかったと私の知人に話をし苦笑していたという。 いずれにしても、最初に贋作者斎藤素輝説をとった加藤藤圃氏も、それに追随する二人もまた不思議な人達である。 |
昭和41(1966)年12月6日、バーナード・リーチ氏と共に、手控と現地との関係を調査するため、佐野地方を訪れた京都大学教授の江戸文学者野間光辰氏が、乾山の手控は江戸文学の紀行文として非常に貴重なもので、今後の重要な研究対象となる、と公言されたものである。斎藤氏が画号の乾山位の字は書けても、文章や素描は天才的能力が無い限り、逆立ちしても出来ない位判りそうなものだが、絵画を見る力の無いリチャード・ウィルソン氏と松浦潤氏には、そうしたことが判らないらしい。 ついでに記しておくが、昭和39(1964)年に来日したバーナード・リーチ氏に、武蔵野美術大学の水尾比呂志氏、日本画家石塚青我氏(森川氏に乾山調査を依頼された)と私を含む佐野乾山研究会員(山中信一氏、船渡川福一郎氏、若林光四郎氏、吉田進氏)が同行し、須藤杜川の一族で佐野市に住む須藤清市氏より同家に伝来した乾山を実見した。森川勇氏の熱意にうたれ、先祖に申し訳ないと一点を残して、十四点を売却した事情を聞くことができたし、市内の旧家太田清平氏宅でも、明治40(1907)年頃に財産整理のため、越名の須藤本家が売りに出した乾山陶器を、他の骨董品と共に買ったものとの由で、森川勇氏には希望する二点を売却したという。 その当時、私たち研究会は森川勇氏が陶器の売買取引きをした場所や、斎藤素輝氏が定宿にしていた旅館まで確認し、その裏付のための資料にと写真まで撮っておいた。リチャード・ウィルソン氏や松浦潤氏は、このような状況であったことも全く知らない筈だし、地元の調査もまともに考えられないような、この佐野乾山問題について、批判や干渉をすることなど、まことにおこがましい話だ。 |
執拗に贋作説を表明する松浦潤氏は、自著「真贋・考」に、昭和37(1962)年刊陶説114号(日本陶磁協会発行)に掲載された『陶芸家の見た新佐野乾山』として、陶芸家に依頼したアンケートの調査結果を次のように紹介しているので記してみる。それらの回答者は贋作説で、挙げた理由は釉薬に疑義を呈している。として、 ○福田力三郎氏は、『釉薬の成分は含鉛低火度釉で、絵具は低火度釉として明治以後の製造品であり、現在市販されている楽焼用品に似たものに類似、紅梅絵に使用した紅は佐野乾山時代には発見されていないもの』といい、 清水六兵衛氏は、『釉薬の薄っぺら、梅に使われた臙脂色、エナメルのような朱色などは、明治以後の科学染料のように思える』と、返答している。また、 河村蜻山氏は『釉薬の赤、緑、白などは新製品で、明治以後に市販されたもの、乾山時代には出来ていない釉薬である』さらに松浦潤氏は『といったような次第であって、素人の私でも、そのどぎつく安っぽい色は、江戸時代の陶磁器にはない色であることは明らかだ。』と当然のように同調の意見を書いている 以上の贋作説をとる陶芸家は、昭和37(1962)年6月19日〜28日、日本橋白木屋、7月3日〜8日、心斎橋大丸を会場とした新潮社「芸術新潮」主催の新発見「佐野乾山」展を実見しての、或いはその時の図録(白黒でカラー図版はない:HP作成者注)、または芸術新潮に掲載された原色版などによる感想なのか、どうなのか不明であるが、いずれにしても、じっくり検討する機会は無かった筈だから、概念的印象論であった。それこそ釉薬や絵具が、江戸時代のものでなく明治以後のものなどと、安易な見方でさもそれが正しいかのようで、とても乾山作品を目前にして、感情に左右されることなく冷静に判断されたものとは考えられない。つまり、江戸時代になく、明治以後の釉薬や絵具であるといった証明など、それこそ全く無い、いや証明などできないものであった。 |
おそらく、江戸時代には無い絵具だといい切る松浦潤氏は、昭和37年に公表した森川勇氏の蒐集品を、実見していなかった筈だから、第三者の感想批判の受売りなのであろう。しかし、「私がみたものの新『佐野乾山』は、どれも三流の店なのであった。」といっていることから、もしかするとその三流の店でみた作品の印象であったのかもわからない。 とすれば、その作品が元森川勇氏蒐集品でない限り、たとえば、実見作品の絵具は江戸時代にないものであったと判断しても、前記のアンケート調査の陶芸家たちと、同一歩調はとれない。もしそうだとすれば便乗摩り替えになるからだ。 佐野乾山に類するものは、私たちが初代乾山と推定される外に、佐野窯の工房作、または助手の五三郎、丹治の模倣作、乾山を佐野に招いた分限者たちの模倣作と後代の写し物といった具合に、検討を要するものがあるから、広い視野に立って見直すことも、重要な課題である現状ともいえる。(中略) 「あざとくて安っぽい絵具の発色」と決めつける松浦潤氏は、名のみ乾山で軟陶(楽焼系)の真正佐野乾山でないそれこそ紛い物の”佐野乾山”を、心ゆくまで鑑賞してしまったことの次第になるのだろう。(中略)もしも、松浦潤氏がその手放した作品を実見しての感想ならば話は別だ。むしろ森川氏蒐集品であれば、私も同じ話合いの土俵にあがれる。 |
それよりも、佐野で作られた作品の赤色系は前記の陶芸家には判らない。勿論絵画も判らない陶工人と私は思っているが、彩度の鮮やかな朱色系から紅色、そして臙脂(黒色を帯びた濃赤色)までの色相に、従来の京都、江戸時代の乾山が思うように発色させることができなかったものを、当然のこととして、あまりよくない赤色系を、乾山の赤色として形成された乾山観が災いして、新色相を理解できず、その時代に無かった、或は明治以後の新絵具と安易に極めつけたこと。したがって、現代陶芸家を権威者とみた松浦潤氏も、その批判を金科玉条として自己の主張に合わせ利用した以外のなにものでもない。 美しい色相の工夫ができない頃の赤色系と比較して「あざとくて安っぽい」とは、どの作品を指してそういうのか? 前記した陶法伝書の中で、赤色系の重要な部分を知れば、福田力三郎氏や清水六兵衛氏は一体なにを見、なにを考えて判断しているのであろう。乾山自身が、緑礬を焼いて絳礬を作ると、いっているだけでも如何に工夫したかが、判らなければ乾山の赤があざとく安っぽいなどと、根本的な絵画の良否も判らないようなものには、真贋論争など間違っても口にすべきではない。 |
松浦潤氏は誰に聞いたものか解らないが、バーナード・リーチ氏だけが陶芸家の中で亡くなるまで佐野乾山を真作と主張した。そして、「乾山とその伝統」という著書を著している。しかし、ジャネット夫人は「佐野乾山事件の頃は、75歳で白内障に罹って視力は衰えていた」という。と「贋作・考」にもっともらしく眼疾の件までなぜ根ほり葉ほり書かねば実証できないのであろうか。だから森川勇氏宅で新乾山をみて激賞し、そのために従来の乾山観を改めねばならなくなり、前記の「乾山」著書の原稿を書き直したこともまちがったもので、勿論その不確かな視力で乾山作品をみたために、真作と見誤ったのではないかといいたいようだ。白内障など、今では常識的な老人病で、もしもそれほど重症なら、昭和37年以降6回も来日(昭和44年だけ夫人同伴)したり、時には他国にまで立ち寄っていることなど考えられないではないか。 まして、昭和39(1964)年6月5,6日の佐野及び壬生における乾山所縁の地を訪問した折、私は二日間行動を共にしたが、乾山の関わった場所では必ずスケッチをしていた。(中略) また実作を手にして、絵具、釉薬については、注意深く懇切に解り易く説明された。特に乾山の白色は美しい、これを出すのは難しいのだ、といって、じっと「山百合図茶碗」をみつめていた姿を目前にし、これが白内障のリーチ氏の姿とはとても考えられない。 |
それにまた色絵技術で人間国宝になった富本憲吉氏は、「リーチの作品は鉄砂で絵付したものが主で民芸調であり、色絵の専門的な知識はない。日本語の読み書きは自由でないし古文書の真贋は判断できない」という。しかし、外国人の中には、日本語の読み書きも満足でなく、日本画人の雪舟や雪村、北斎、暁斎、写楽、歌麿などについて、日本人の学者よりも立派な研究家がいる。富本氏のリーチ観からみたら、このような皮相的な考えなど全く論外であり、恥ずかしい話といわねばならない。 |
それにしても、リーチ氏が色絵の知識がないなどとは、嘘の話であってリーチ氏の説明を実際に聞いている私たちには、そのような嘘を信じさせようとしても、白内障の一件と同じで無理である。すでに大正6(1917)年我孫子の柳邸内に築窯し、色絵を制作しているし、大正8年に画家黒田清輝の邸内にも築窯しているから、富本氏は親友として庇った発言などとも受けとれないし、むしろ大正元(1912)年六世乾山に入門し、七世乾山を名乗ることができて、皆伝目録を受けた陶工を、色絵の専門的知識がないといえば、富本憲吉氏(一緒に皆伝目録を受けた:HP作成者補足)自身もおかしな事になりかねない。それこそ名誉市民のような他事で、後継乾山家の権威づけや外国人画家に敬意を表した外交辞令のつもりで、皆伝目録を与えたものでもなかろう。私は直接リーチ氏に「富本さんは乾山についてどういっておられますか?」と聞いてみたところ、リーチ氏は「富本は絵もわからないしなにもいわない。いえないのだ。悲しい。」と、親友の富本氏がなにも発言できない立場を知っていて、それこそ悲しそうであった。とどのつまりは、富本憲吉氏でさえ、勿論浜田庄司氏でも同じであったろう、日本陶磁協会の傘下にある陶芸家の泣きどころを、リーチ氏はよく知っていて、日本の美術界の狭隘な姿を悲しんでいたのである。 |