乾山の佐野時代
藤岡了一(美術史家)
乾山、尾形深省の作陶歴は、元禄十二年三十七才の時に京都鳴滝に開窯してから、寛保三年江戸入谷に八十一才の生涯を終るまで約四十五年に及んでいる。その間、最初の鳴滝時代(元禄十二年-正徳二年)から次の京都二条時代(正徳 二年ー享保十六年)、更に晩年江戸入谷に移ってからの入谷時代(享保十六年-寛保三年)と、大略三時期に分けられていて、それら三時期の作品はそれぞれ鳴滝乾山、二条乾山、入谷乾山と呼ばれている。そして入谷在住の間、元文二年から三年にかけて、下野国佐野に招かれ、同地で作ったものが特に佐野乾山と称されているのである。 ところで、世上「乾山」として流通しているものは意外に数多く見うけられ、しかも各種雑多の乾山が入り交って、かれこれと混乱しているようである。真正乾山の外に、乾山が他に代筆させたもの、一般向きの商品として弟子や職人に作らせたもの、また江戸と京都にそれぞれ二代三代以下の乾山代々の作があり、更に乾山の名声を追って倣作した各種の偽乾山がまた少なくない。その上「乾山」の見方が区々であって、それらは現在までのところまだ十分に整理されずにある。卒直にいって各人各様の観察が自由に行われているのが現状である。すなわち、乾山には基準とすべき第一資料が従来非常に乏しかったため、その実態をはっきりあとづけることも容易でなかったといえる。 この意味において、このたび新しく発見された「佐野乾山」の一群と、十点におよぶ乾山手控帖は、佐野における乾山晩年の芸域を如実に示して余りあるばかりでなく、乾山の全容を正確に理解する上にも極めて重要な資料とせねばならぬ。特に森川氏の手元に収集整理されている資料の数々は、従来暗中摸索であうた佐野における乾山の作陶事情をかなり明確に伝えているし、また作品の大半は予想外にすばらしいものであり、乾山の面目躍如たるところを観ることができる。この夥しい「佐野乾山」の発見がまさに驚異ともいうべき奇跡性の故に、真偽に関して疑問を抱く向きもあるようであり、一部ではこれらを全面的に偽作として否定し去ろうとする動きも見られるが、いまこれらの作品なり資料なりを直接に、冷静に観祭すれば、やがては諸々の疑いも氷解するにちがいない。 |
さて、「佐野乾山」において、第一に感ずることは、やはり一貫して絵画的要素を基調としていることであろう。そこには紙、絹、キャンヴァスを陶器の肌に置き換えた「陶画」の世界がみごとに展開し、青、赤、黄、黒1さまざまな色と線との交響楽が自由に奏られている。 そして殆んど例外なく、画面には暢達或いは雄健の筆致でなんらかの賛が添えられている。乾山はそこで彼独自の芸術を主張しているわけであるが、絵画に配された書と詩歌とが微妙に融合して乾山の芸域を更に奥深く、豊かなものにしている。これは常に乾山の作陶一般に見られるところであるが、「佐野乾山」では特に強く鮮かに、時には情熱的に溢れるばかり意欲的なのが特徴である。 「佐野乾山」のそうした絵画性を、より美しく微妙に表現するための支えは、彼独特の工夫になる「下絵付(したえつけ)の技法」である。下絵付とは、その文字が示すように上絵付に対するもので、上絵付の代表としては柿右衛門、色鍋島、伊万里、九谷などの色絵磁器の数々、それに仁清、古清水などの色絵陶器が挙げられる、これが明清の大陸伝の技法によることは周知のとおりであるが、「下絵付による色絵陶器」は実は乾山にはじまり、乾山をもって終熄するといっても過言であるまい。下絵付の技術について詳述する余裕はないけれども、乾山における下絵付の眼目は「和絵具の色調さながらに焼成するという独創性」にあるといってよい。鳴滝時代の作品といわれる東京国立博物館蔵の「山谷看鴫図八寸皿」をはじめ、大倉家の「寿老ノ図八寸皿」など、光琳画、乾山焼造の墨絵皿をみてもこの事実を確かめ得るが、「佐野乾山」に至ると、この技術はさらに昇華して、前人未踏の色絵陶器が完成するのである。 |
上絵付の場合、絵具は焼成の結果完全に溶融して「グレイズ」になっており、この際注目せねばならぬのは、現実に使用する絵具の色が、焼成されて「グレイズ」になれば異色を呈する点である。ここに陶工の工夫と創意が要求されるわけである。しかし乾山−特に「佐野乾山」にあっては、目の前にある絵具の色が、焼き上げてもほとんど変色しないで元の色調のままに現われる。これが下絵付の巧緻な技法であり、「佐野乾山」の魅惑なのである。では「佐野乾山」の絵具とは何か。その多くは日本画に便用する岩絵具に他ならぬようである(国立陶磁器試験所元課長吉竹栄次郎氏談)。すなわち素焼の生地に極めて薄い化粧土を施し、その上に乾山は思うがままの絵を描いていった。そしてさらにその上に釉薬をかけ、窯に入れるのである。化粧土がかけられた皿や鉢、壷の生地はそのまま絹地であり画紙であった。 乾山の画風に琳派の要素が著しいのは、実兄が光琳であるという事実だけで容易に頷けるところであるが、「佐野乾山」の一群中にも光琳風を踏襲した優品を随所に見ることができる。例えば「梅ノ図七寸皿」「朝顔ノ図七寸皿」などの花には、琳派の「つけたて」の技法がそのままうかがわれるし、また「ためこみ」とか「たらしこみ」のすぐれた技法も、「八ツ橋杜若ノ図長角鉢」「杜若ノ図扇面皿」の杜若にはっきり見られるように、琳派様式以外の何ものでもない。また「武蔵野秋草二月ノ図水指」に見られる軽やかな一筆描きにした満月のぼかしは、完成された琳派の代表的な墨画といっても過言ではあるまい。 |
しかし、「佐野乾山」ではむしろ宗達風の画想が目につく。通観して、光琳画のあの艶な肌あいとは異なった、どこか強直な気分、自由でリアルな野性味といった風がただよっているところは無視できない。その最も特徴的な作品としては「寂滅浄心」の賛のある「紅白蓮ノ図八寸皿」、同じく「蓮池水禽,図八寸皿」、「彩観無上」の賛のある「あぢさい流水ノ図角切長角皿」などを挙げることができよう。特に蓮池水禽、図には「倣先師之図」とあり、明らかに宗達を先師として崇敬する乾山の態度がよくうかがえるのである。この外、宗達が得意とした「扇面ちらし」の画想は「佐野乾山」にしばしば登場する。 「扇面ちらしノ図長角鉢」或いはこの画想をひとひねりした「団扇ちらしノ図八寸皿」、「扇面形絵皿」などはその的確な作例であろう。 次に乾山の画風の中で注目されるものとしては、中国的な雄剛の筆意をみせる「唐画調」の著しい作画がある。須藤杜川の「都びと召せとはつかし梅の花」の句をうたい込んだ「紅梅ノ図四方花入」「拾得ノ図九寸皿」「山水ノ図七寸皿と茶碗」「柳二鳥ノ図扇面皿」「蓮池水禽ノ図九寸皿」などが好例であろうが、ここでは同時に禅機の深妙或いは文人の雅懐ただならぬものを併せそなえている。 |
乾山はまた宗達から光琳に伝承する装飾的画風を巧みに会得し、これを独特の写実的画法に合一融合せしめて、妙味ある特色を発揮している。例えば「朝顔ノ図八寸皿」、「杜若図ノ長角大鉢や扇面形皿」、「紅白椿,図八寸皿」、「四君子,画八寸皿」、「葡萄二図ノ八寸皿や茶碗」など、いずれも画面は一見して写実的な形式を誇示しているようであるが、熟視すれば、実は琳派特有の大胆な省略の筆つかいがその骨子を形づくり、絵の配置に細かな神経が隅々にまで行き届いているのを容易に発見することができる。一つの画面に装飾性と写実性とが巧妙に融和した、つまり「写実」を装った「装飾性」の極致であるともいえよう。これの好例としては別に「雨中の紅白立葵ノ図八寸皿」を挙げねばならない。この皿の表面には「なつなれやかきま色どる花かさをとりまきてふる雨ぞゆかしぎ」の歌が書かれているが、その花や葉に薄く点々と白糟がかかっているのは見逃せない。この白紬は何気なく見れば、焼成の不首尾と誤認されそうである。しかし.これは実は白粕をかけることによって、歌にある「ゆかしぎ雨の風情」の微妙な効果を的確に描き出した乾山の非凡の技巧なのである。技巧といえぱ、「針掻き」のみごとな手法も逸することはできない。佐野手控によれば、この手法は「かき落し」とも呼ばれ、鋭利なヘラ先で絵付の面に細い線彫を施し、絵に写実的な立体感や柔かみをもたせるテクニックである。主として菊の葉や朝顔、あじさいなど葦木の葉脈などを表わす際に用いられるが、心に十分の下絵が描かれていないと、一筋の「かき落し」によって絵の全体をこわしてしまうことになる。これまで世に出た陶器のうち、「佐野乾山」ほどこの「かき落し」の技巧を美しく、みごとに結実させた例を知らない。 |
次に「佐野乾山」の器種を類別すると、茶壺、花生、茶碗、香炉、角皿の類、長角大鉢の類、丸鉢の類、向付の類、その他に及ぶ。その中、角皿が最も多いのは、いうまでもなく平面に画筆の自由が容易に求められるからであろう。なお、乾山の図柄が梅、松、竹、朝顔、秋草、紅葉など、四季各種の草木によって大半が占められていることは、「師と仰ぐもの四季の花力」と述懐している詩人乾山の真情が自ら発露したものと理解される。要するに、乾山芸術の魅惑は、風雅な文人としての高く牒かな教養と、それに裏打ちされた、清新で自由な創造精神、それらが画面一ぱいに横溢するとこるにあるといえよう。 さて、乾山が佐野の地でかくも多数の傑作をものしたのは、いかなる事情によったのであろうか。これには第一に、「佐野乾山」の器面の各所に書きつけられた賛とか風懐とか、乾山が即興に書ぎ記した歌や句、或いは詞文などが多く認められるが、これらがしばしばその間の機微を明らかにしている。第二には十点にのぼる乾山のいわゆる「佐野手控」がある。これは一種のメモワールであって、乾山自身の人間像をも或る程度はっぎりと浮出している。この「手控」によれば、乾山は京都から日光輪王寺門主に就任された公寛然親王に従って京都から江戸に下向し、深川の分限者冬木家に寄寓していたが、佐野の分限者須藤杜川、松邑青英亭(包休一斎)、大川顕道(川声翁)らの懇請によって、元文二年春まだきころ佐野の地を踏んだ。そして分限者であり、文人雅客でもあったこれらの人々の手厚い待遇のうちに約一年の時期を越名や佐野において過ごしたのである。佐野に至って間もなく焼製したと考えられる「半開扇二小柴垣図・八寸皿」を見ると、その賛に「かたりくさは半開扇のことくかよろしく、なかなかとはいたさぬものぞかし」と自戒の言葉を書きしるし、画中の扇面図の中には「せとをたたけるおとしけく、いてたちみれはたつぬる人とて無之只有明の月のみさゆるそかし、おもひみるに生れし都かたより颪となり申してこのいほりに来しかとも存ぜられ、そぞろなつかしく−」と、心のひだに焼きついた山紫水明の京都を偲んでいる。 |
ところが、「手控」のうち「雪の部」をみると、その冒頭に次の如く認められている。「安蘇の里にまかりある折しも、杜川大人、川声大人、壺青英亭大人玉の計り難き温情を蒙りたる事、一命有之限りは忘却相出来不申−」と。この二つの短文の距離のなかに乾山の心の微妙な変化を汲みとることができよう。元文二年から元文三年の間の佐野の風月と人情ば、人間乾山の魂をゆり動かし、感興の琴線に触れるところがあった、そうした人々の恩顧と期待に応えるため、乾山は陶技の粋をつくし、情熱を傾倒したようで、その「求めに応じ」た銘文のある優作の数々を現に見ることができる。老米、いずれかといえぱ不遇にあったと思われる乾山にとって、元文二年、七十五才の一年はおそらく生涯最良の年であったであろう。 「佐野乾山」はそうした歓びの中から一時に湧出した老熟至芸の一団に他ならない。これらが乾山作品の系列の中でいかなる位置におかれるかは自ら明白であろう。 来年は乾山生誕三百年という記念すべき年である。この時「佐野乾山」出現の意義はまことに大きいといわねばならぬ。 |