「Bien」の真贋最前線特集の佐野乾山


*美術誌の「Bien Vol.24」で真贋最前線という特集があり、佐野乾山に関して書かれています。
   これまでの美術誌の扱いとは異なり、真作よりの内容でした。

1.日本美術におけるお騒がせ贋作事件簿大宮知信(フリーランスジャーナリスト)

大宮氏は客観的に真贋事件に関して述べていますが、深く突っ込んでおらず表面的な記述に留まっています。

(関連部分抜粋:P13)

   第2の<永仁の壺>事件かといわれたのが<佐野乾山>である。乾山は江戸時代の有名な画家尾形光琳の弟で、陶工にして画家。1962(昭和37年)、栃木県佐野市の旧家からその尾形乾山の作と称する焼き物が200点も出てきたものだから、当時の人はビックリ仰天した。それが本物とすれば重文級の大変貴重なものである。乾山が佐野で焼いたという証拠の覚書『佐野手控帖』も出てきて、その真贋をめぐって賛否両論真っ二つに分かれ、激しい論争が行われた。佐野乾山事件は美術愛好者だったら知らない人はいないぐらい有名な事件だが、決着がつかぬまま<佐野乾山>はいまだに出回っている。


2.美術品は見るだけでなく、読み込むもの瀬木慎一(美術評論家)

TVの「なんでも鑑定団」でもおなじみの辛口評論家の瀬木氏ですが、驚いた事に佐野乾山に関してはかなり好意的な発言をしています。
きちんと関連資料を調べているようで、さすがに調べもしないで贋作と決め付ける評論家達とは違うなと関心しました。

(関連部分抜粋:P16)

― では瀬木さんは栃木県の佐野市で大量に発見された尾形乾山の作と言われている作品、いわゆる〈佐野乾山〉についてどう考えていますか?

〈佐野乾山〉と言われるのものはだいたい二百数十点ほどあるでしょうか。これは当時国会でも論議されましたが、その後色々と資料も出てきて疑問も晴れてきたし、今はもう発見当時とは扱いも違うと思います。乾山は佐野に1年3ヶ月いたことが明瞭になっています。いつ行って、いつ帰ってきたかまではっきりしているんです。むしろ本当に分からないのは、佐野に行く前、上野の下谷にいた時代の作品がひとつも残っていないことですね。佐野のほうでかなりの数のものを焼いたことは間違いないです。そしてそれを裏付ける『手控』、乾山の記録ですね、それもはじめは2〜3種類だったのが、どんどん増えてきて今は40種類ほどあります。全部ではありませんが、そのうちのかなりのものを読んだみましたけど、かなり正確ですね。こうしたことを考えてみると、存在は確実ですし、乾山本人が制作したものもそのうち過半だと思います。ただ贋作のようなものや、弟子がつくったものがそのなかに混入している可能性もあります。ですからその選別が問題でしょう。真相の究明は今そこまできていると思います。
乾山の作品は、彼が江戸に来る前と江戸へ下り、佐野に来てから焼いたものとでは作りが全然違います。それがどこでわかるかというと、楽焼です。関東の焼き物は、清水焼などと比べると非常に低い温度で焼いていました。だいたい素焼きに上薬を塗って彩色していました。さらに当時は今みたいに土をどこからでも持ってこれる時代ではありませんから、その場所の土を使うしかない。だから関東にきてからのものははっきりとわかります。あと絵付けの特徴です。これは模倣しようと思ってもできないものです。乾山は京都時代から描いているのを見てわかるように、非常に絵が俳画風の速筆なんです。兄である光琳にもその要素がありますが、この人はもっと古典的にがちっと絵を描いた人ですから、ちょっと画風が違うんです。ですからあの絵付けはまさに乾山です。彼の絵と整合すると思います。


*ちなみに瀬木氏は、1989年に書いた「迷宮の美術」の中では、贋作とみなして記述しています。
   (というよりは、贋作であるという前提 -自分では特に調査していないので- で書いています)
P194 − 「ほんもの以上のほんもの?」 から抜粋

規模の大きさということでは、佐野乾山事件は近年まれな大事件である。
元禄の名士乾山が一時滞留し、陶作したことのある栃木県佐野の旧家から発見されたという陶器が、数点ずつ、ぼつぼつ姿を現したのは、1960年頃からである。それが1962年前後に、あるコレクターの許に総計200点以上まとまったのだから、事は俄然大きくなった。
事蹟的にいえば、こんな大量の逸品が、すでにものの漁りつくされた佐野から再び現れる可能性はないのだが、それが与えるあまりに鮮烈な印象から、一部愛好者、専門家が本物と思い込んだ。しかし、その出所は一向に明らかにされず、内容的にも乾山の時代のものとしてはおかしい点が多く認められて、否定論が次第に強くなった。肯定者側にそれを押しかえすだけの力が不足している現状といっていいが、この一件で注目されていいのは、真贋論争を超えた一種の美学的評価がこの一群の作品に下されたという事実である。
たとえば、小林秀雄は、「にせものにはにせものの臭いがするものだが、これらにはそんな臭いは感じられない。魅力のある皿だ」と語ったと伝えられるし、また、岡本太郎は、展覧会と見て、真贋の判定などどうでもいい、「たとえ、ニセモノだって、これだけ豊かなファンタジーのもり上がりがあれば、本ものよりさらに本ものだ」と記している。
私もまた一見して、人を人と思わぬこだわりのないその自在な表現に打たれて、本物だろうと偽物だろうとどうでもいいじゃないか、という感想をそのとき抱いた。そして、もしそれが偽物だとしたら、作者はよほど不敵な面構えの奴だろうとひそかに感嘆したものである。
あれから何年かたった今、事実問題としてはその真実性が多分に疑われている状態において、もう一度最初の印象を検討してみると、徹底的に人を喰った態度ゆえに人々は一度は魅了されたのであろうが、その美しさにはどこか毒のようなものが含まれていた、どうしてもノーマルなものだという気がしない。ファン・メーヘレンのすべてを計算しつくした冷酷さとは反対に異常なふてぶてしさがそこにはあって、やはり、世間に対するただならぬ復讐心のようなものが感じられてならない。
作者その人が、もしも乾山といった過去の存在にこだわらず、すべてを率直に自分のものとして表出したならば、恐らくユニークな作品が生まれたと思えるのだが、この種の人間は、フラストレーションがあってはじめて、特異な表現を可能にするものらしく、かのファン・メーヘレンにしても、出獄後発表した自作は較べものにならぬほどつまらないものだったという。本物以上の本物というのは、偽作者の作品に関してのみ真実なのではなかろうか。彼らの作った偽物は、彼らの自作よりずっとすばらしい。

*しかし、氏は同じ本の最後にある贋作事件年表で、下記のように記述していますので、資料を読んで真作派になったのでしょう。

●1988年 10月、
住友慎一編『狩野乾山の実像 』(佐野乾山の誤植?)が出版され、乾山の佐野における行跡が資料を伴って明らかにされる。問題解明への一歩前進として評価できる。



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