リチャード・ウィルソンの「尾形乾山 全作品とその系譜



はじめに − リチャード・ウィルソン氏の経歴

  • 当初はやきものに興味を持ち、乾山焼の大胆さに魅かれ、自宅に小さな窯を設け、好きなロクロを廻していた。
  • 1978年4月、1年間京都に滞在し、鳴滝を訪れる。
  • 1982年から3年間、京都市立芸術大学学長であった故佐藤雅彦教授の配慮で同大学陶磁器科に籍を置き、乾山の陶法伝書の全文解釈、実験に専念する。
  • 法蔵寺から鳴滝窯址出土陶片14個を入手し、ワシントンDCのスミソニアン・インスティテューションでその科学分析に従事する。
  • 1986年夏、再度法蔵寺を訪れて、窯址を掘り起こして陶片を得、一部をイギリス、オックスフォード大学付属考古学科学研究所で焼成年代の推定を行い、ワシントンDCでは破片の分析を行い、乾山の陶法、素材を調査した。
  • 前フリア美術館館長の理解のもと、同美術館蔵の60余点のうち9点を選び、メスを入れた。
  • 日本、アメリカ、カナダ、イギリス、フランス、ドイツ、オランダなどを回り、乾山全作品の見学の旅に出て、約2,500点を実見する。


佐藤雅彦氏と山根有三氏がウィルソン氏に期待したものは?

私は9年ほど前、当時の京都市立芸術大学学長の佐藤雅彦氏の紹介でウィルソン氏を知ったが、以後毎年来日される度に会い、一緒に乾山焼の各コレクションを見学したり、光琳、乾山に関する多くの鋭い質問を受け、次第にウィルソン氏の人柄と彼の本格的な乾山に取り組み熱意に、深い感銘を受けるようになった。(中略)
私はまだ「目次」を拝見しただけだが、それによってもウィルソン氏夫妻が、四十年前の小林市太郎著『乾山京都篇』(現在までの最も本格的な乾山研究書)を超剋するという意欲で、この大著を執筆したことが分かる(中略)
また、「新佐野乾山事件とその後」では、彼らが第三者として、いかなる意見をもつのか興味深い(後略)



佐野乾山に関する記述に関して

ウィルソン氏の記述 私のコメント
1月28日、毎日新聞は、二百余点に及ぶ新佐野乾山作品の発見を報道したのである。栃木県佐野市に一挙に大量な乾山焼の出現を伝えるこの出来事は、それに加えて乾山みずからが認めたという手控え十四点をともなっている。かつて昭和の初期の調査でもわずか数点の作品しかみあたらなかった地方都市に、忽然として乾山が甦ったような事件である。
  • 山根有三氏が「森川氏が持ってきた手控えはホンモノ」と断言した事実を無視しているのは、如何なる理由なのでしょうか?
  • 昭和初期の調査がどのような調査であったかよく分からないにも関わらずこのような記述をするのは妥当ではないと思います。
  • バーナード・リーチ氏の本には、昭和34年に森川氏親子と林屋氏の3人で佐野地方をしらみつぶしに探索する計画を立て、継続していたと書かれています。(つまり200点以上は3年がかりで探索した結果である)昭和初期に篠崎氏達はそのようなレベルの(金と時間をかけた)努力をしたのでしょうか?大体、乾山レベルのお宝を持っている事など、税金の事を考えても簡単に人に話す訳はないと考えるのが普通ではありませんか?
しかし、出川直樹の「いまだに謎をはらむ『佐野乾山事件』」でも語られるように、多くの贋作との意見をもった人びとが、今も堂々とみずからの思うところを主張するのに反し、真作説に走った側は、しだいに口を閉ざして弱腰になり、結局、世間一般は贋物事件としての一件落着を憶測するようになるのである。
  • 林屋氏や藤岡氏、山根氏などの真作説の側が自由に意見を言えなくなったのは、国会文教委員会での討論の結果、清水政府委員が国家公務員に対して、佐野乾山に関する緘口令を敷いたためである。その事を知りながら(知らないなら佐野乾山を語る資格はない)このような文章を書く出川氏の意図は明らか。自ら贋作とは断言せずに贋作と印象付ける記述方法は見事としか言いようがありません。
  • そのような出川氏の意見を引用するウィルソン氏の意図は何なのでしょうか?
さて、昭和37年に起きた新佐野乾山事件は、乾山の佐野行、別して昭和10年代の篠崎および他の一連の佐野乾山研究を十分に調べた上で、創作されたものかと思われる。
  • 上にも書きましたが、手控えを山根氏、野間氏などの専門家達がホンモノと認めた事実に関して言及がないのは何故なのでしょうか?
  • リーチ氏の本には、見つかった手控えと同じ手跡の手控えが法政大学の岩倉教授が所有しており、それは明治の末の1910年頃、栃木県から移ってきた氏の母の実家から彼の手に入ったものである事が記載されており、贋作派が主張するように事件当時に製作されたものではないことは明らだと思います。
新発見の佐野手控帖を本物と信じさせるためには、滝沢家蔵の「陶磁製方」を紙質調査した結果、同書の用紙は二十世紀に製造された紙であり、文字も初代乾山の書ではないとリーチに伝える。リーチは追って誰が紙質調査をおこなったのかと問い返せば、森川・水尾などのいわば佐野事件の本物説を取った人びとの名が揚げられている。果たして彼らは滝沢家にある「陶磁製方」を、どのようにテストできたのであろうか。ましてやその道の専門家ではない人びとに、いかなるテストがほどこされ、何を理由に二十世紀製の用紙であると判断されてことであろう。
  • 古紙であるか、二十世紀の紙であるかは見る人が見れば分かると思いますが...。
  • ウィルソン氏は、「ましてはその道の専門家ではない人びと」が判断した事を非難しています。それは確かにそうです。しかし、それでは何故ウィルソン氏の矛先は陶磁協会の反対派には向かないのでしょうか? 手控の真贋に関して、水墨画家で自称かな文字研究家の加瀬藤圃の意見を専門家である山根氏や野間氏の意見を差し置いて重視するのは、全く矛盾すると思います。専門家でない人の意見を排除するのであれば、真作派、贋作派ともにそうすべきです。
相対的な乾山に関する知識はもとよりのこと、佐野の事情や土地柄に精通した人物、とくに参考にすべき篠崎論文、すなわち昭和10年代の佐野乾山研究を十分理解しえた人物がいる。美術史家、または郷土史家の類である。そして日本画に心得のある者、俳句や詩文、さらに陶法にくわしい人物らの姿が浮かぶ。(中略)
さて、それら売買できるルートに結びつけ、仲介人の活躍を待つ。最後は何も知らない外国人の陶芸家を招き入れて、その名声を利用する。バーナード・リーチの登場である。
  • ウィルソン氏は、誰から吹き込まれたのか分かりませんが、森川勇氏、水尾比呂志氏、石塚青我氏、渡邉達也氏、斎藤素輝氏を贋作グループとしてイメージしているようですね。(笑)
  • ウィルソン氏の贋作製造、販売の記述はまるで佐那具陶研の話をしているようです。もしかすると佐那具の関係者から話を刷り込まれたのかも知れません。
  • 長年に渡って乾山研究を続けてきた大先輩、七世乾山に対して「何も知らない外国人の陶芸家」とはあまりに酷い侮辱ではありませんか?仮にそのような策略が存在したとしても(笑)、実際の陶器と手控えがホンモノでなければ、リーチ氏が騙される訳がないではありませんか。(現に、リーチ氏は篠崎氏の発見した佐野乾山をニセモノと断言しています)
当時のリーチは、75歳の高齢で、ほとんど白内障から視力も衰え、興奮することによって精神の安定を欠いていたとジャネット氏は回顧する。
  • 渡邉達也氏の「真贋 尾形乾山の見極め」に「白内障など、今では常識的な老人病で、もしもそれほど重症なら、昭和37年以降6回も来日(昭和44年だけ夫人同伴)したり、時には他国にまで立ち寄っていることなど考えられないではないか。
    まして、昭和39(1964)年6月5,6日の佐野及び壬生における乾山所縁の地を訪問した折、私は二日間行動を共にしたが、乾山の関わった場所では必ずスケッチをしていた。(中略)
    また実作を手にして、絵具、釉薬については、注意深く懇切に解り易く説明された。特に乾山の白色は美しい、これを出すのは難しいのだ、といって、じっと「山百合図茶碗」をみつめていた姿を目前にし、これが白内障のリーチ氏の姿とはとても考えられない。」と書かれています。その通りだと思います。
  • また、「興奮することによって精神の安定を欠く」など、ほとんどの人に該当する話ではありませんか?(程度にもよるでしょうが、興奮しながら精神が安定している人っているのでしょうか?(笑))


佐野乾山の写真何これ?...



これまで私が見たことのない「佐野乾山」の数々



最後に


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