乾山の生活と芸術
日本の美術18 宗達と光琳

水尾 比呂志





昭和40年12月に発売された平凡社の日本の美術18「宗達と光琳」に掲載された水尾比呂志氏の論考を紹介します。
題名の通り、俵屋宗達、尾形光琳を中心に、本阿弥光悦、尾形乾山を加えたいわゆる「琳派」の藝術家に関して論じています。その中の乾山に関する記載を紹介します。

(以下、傍線等は引用者が付けたものです)

乾山の生活と芸術

若き日の隠棲 
 乾山の生涯は八十一年の長きにわたって、なかなかに波潤に富んでいる。しかしその波瀾は、光琳のように派手で人目につきやすい社交的なものではなく、地味で隠逸的であった。父の遺産をもらってかれがまずしたことといえば、権平という名を深省と改め、御室仁和寺の門前に習静堂という隠棲の草庵を結ぶことだったのである。ときに二十七歳。元禄三年(一六九〇)の秋にこの草庵は完成した。乾山は禅の兄弟子月潭を招いて一文を請うた。月澤は『習静堂記』と題する美しい文章を作り、乾山の隠棲をたたえて次のように教えている。「水が静かならば一本の髪の毛でも見わけることができ、大地が静かならば何なりとも乗せることができる。人は禅を結んで静かに想をめぐらさなければ、想ほ紛れ心は乱れて、精神の浄らかさを得ることが困難である。どうか深省よ、これをよく理解して、黙々とつとめなさい。長い間かかってもその修養が熟せば、自然に人生を悟るでありましょう」と。この教えを体して、乾山は人生を歩きはじめたのである。
 だが、乾山の隠遁生活は、世捨人のそれではない。いわば洗練された快楽の生活の極致ともいうべきものであって、光琳の遊蕩生活をネガティヴにした姿と見るのが正しい。元禄の華麗・奢侈の世俗を超越した理想の桃源境を、乾山は習静堂に求めた。通俗の歓楽や世俗の生活は、この若くして理想高き天性の詩人には堪えがたい低次元のものだったのである。遊蕩に独創と気品を求めた光琳と、その精神はひとつである。乾山もまた、つよい反俗の気骨によって独創的な隠遁生活を営もうとしたのであった。何ものにも束縛されない自由な精神生活と、おのれの趣味だけで統一された日常生活の場。乾山における禅とは、そのような理想境を確立するひとつの方便であったのだろう。

高い教養
 乾山の教養は、このときすでに十分に高かった。漢詩・漢学、和歌・古典、経学などの知識も、茶の湯や能楽のたしなみも豊かであった。なかでももっとも得意としたのは書である。乾山は光悦の人格に強い思慕の念をいだき、鷹ケ峰にあった尾形家の邸に行けば、光悦の孫空中斎光甫にあこがれの光悦の話を聞くのを楽しみとしていた。書に熱中したのも光悦にあやかりたいがためだったと考えられる。
 乾山の書は、のちに変化をきわめた多様性に発展するが、若いころは格調正しい唐風の書体であった。かれが三十歳の元禄五年(一六九二)に書いた文、『過凹凸?記』(挿72)を見ると、文章の名調子もさりながら、その書のすがすがしい美しさほまた格別だ。乾山は凹凸?すなわち詩遷堂の主人石川丈山を憶って筆をふるう。
「先生の詩は専ら唐詩の体に傚ひて、雅古の風あり。其の徳、上は天子に達し、下は異域に逮ぶ。花の晨に月の夕べに、常に文賓詩客と相交会す。会すれば則ち雅興を催さざる無く、濁富を厭ひて清貧を楽しめり。一生妻無く子も無し。」このあこがれに満ちた文章は、丈山の生涯が深く乾山の感銘するところであったことを示しているが、その影響であろうか、かれもまた一生を独身で過ごした。
 しかし、習静堂の理想は意外に早く破れ去った。十年を出ずして、父の遺産は使いつくし、雁金屋の営業不振や大名貸しの回収不能のために、光琳とともに生活は行きづまった。光琳は画家の道を選び、乾山は焼物師となることでこの危機を切りぬけようと決心したのである。

鳴滝開窯
 焼物を焼く決心をしたのは、仁和寺門前に名工仁清がいて、乾山は早くからここで慰みの陶器造りを習っていたからだ。それに、鷹ケ峰の光甫からも楽焼の法を教えてもらっていた。それはあくまでも隠棲の手なぐさみであり、素人の楽しみのつもりだったのだが、のちに三大陶工の一人とたたえられる乾山の素質は、その陶技をいつしか素人芸の範囲をこえるものにしていたのである。焼物を家業にすれば、趣味と実益は一致する。乾山は大いに意欲を燃やして、元禄十二年(一六九九)の三月、御室仁和寺宮から泉谷築窯ならびに焼物家業の許可を受け、八月に仁清より陶法秘伝を授かり、九月築窯完成、十一月初窯の火を入れたのである。これが鳴滝窯(挿73)であり、乾山焼のはじまりであった。
 弟の製陶に光琳は喜んで協力した。乾山が『江戸伝書』で記しているように、はじめはすべて光琳が絵付けをし、自分は賛や銘文を書くという、むつまじい兄弟合作が行なわれた。これが光琳絵・乾山作の一群の皿である(図4 36挿3 60 61)。やがて、乾山も絵付けを試み、光琳の意匠のほかに新しい絵を考案し、また釉薬や造形にも工夫をこらしてしだいに腕をあげ、乾山焼として世にだしても恥ずかしくない焼物を作ることができるようになった。世間でもかなり評判になったらしく、乾山焼の名が記録にしばしば現われている。
 しかし、鳴滝窯の経営は、乾山の陶技の習練には役立ったが、これを家業として成功させるまでにはいたらなかったらしいのだ。もともと文人の余技といった気もちの抜けきらないかれの製陶は、焼物商売という莫大な経費を要する、失敗の多い商売には不適当だった。気に入った作品でなければ売らないというような芸術家気質もあったろう。凝性で熱心だから、絵付けも漢画・大和絵と工夫をこらし、南蛮ものの写しなども研究したらしいが、それは商売としてはよけいなことで、採算を度外視した道楽に属する。こうして鳴滝窯は十三年もちこたえたけれども、ついに正徳二年(一七一二)火を消した。この時代は、陶工乾山のさまざまな試みの時期、習練の時代と考えねばならない。世界じゅうの土どれでも焼物にならないものはない、と豪語する自信をつちかってくれた時期である。
 鳴滝窯の作品はかなり量があったと思われるが、私たちが乾山真作と認めることのできるものは意外に少ない。光琳合作の皿のはかには、藤田美術館のやり梅香合(挿76)、旧塩原家の滝絵茶碗(図38)などはその代表作であろう。漢画風な絵はまじめで豪快な気風をもち、色絵は大和絵の優艶さに清潔な情趣を盛りこみ、書には格調と堂々たる気概がこもっていて、陶器と絵と書を総合的に鑑賞させる乾山の焼物は、ここにその基礎をしっかりと固めた。それは、光悦が書と絵とを、または書と蒔絵を結合してかずかずの美しい作品を作ったことにならったものであって、乾山によってはじめて創造された新しい形式の焼物であった。

二条丁字屋町時代
 乾山はもう五十歳になっていた。鳴滝から二条丁字屋町に移ったかれは、真剣に生計の方法を考えなければならなかった。仁清の子で鳴滝窯でも助手をつとめてくれた猪八を養子とし、聖護院門跡に小さな窯をもって、そこで焼物商売を続けるとともに、すこしは人に知られた乾山焼の意匠を世俗に合うようにして、五条坂や下粟田口で大量製産し売りだすというようなこともした。光琳が江戸から帰ってきて、かつてのように絵付けをしたこともあったようだ。たとえば黄山谷の角皿(挿60 74)がそれにあたる。
 この時代は乾山の失意の時代である。隠棲の楽しみもなく、陶隠と号した焼物の芸術的な製作もままならぬ。意に満たぬ作を売って口に糊する不本意さをどうまざらわしたらよいのか。おそらくかれは、絵を描き詩を書くことと、陶法の研究とで寂しさをまざらわしていたのではなかろうか。それにしても丁字屋時代は二十年間に及んでいる。乾山はここで兄光琳を失わなければならなかった。妻も子もないかれの孤独な二十年間は、果たして私たちがあまり芸術的価値を認めていない、乾山焼の大量製産品ばかりを作りつづけていたのだろうか。しかし、その疑問を解く研究はまだ達成されていない。いまはやはり乾山の暗黒時代としかとらえることのできぬ期間である。
 ただ乾山の楽しみのひとつは、若いころから光琳とともにしばしば伺候していた二条綱平との交情であったと考えられる。『御番所内々日次記』は、この元禄の宮廷文化人の邸を訪れる光琳や乾山のことを、元禄二年(一六八九)から享保五年(一七二〇)にわたるあいだ記録しつづけている。二人は綱平の伽をし、遊芸の相手をし、絵や焼物を献じて芸術談義を交わしていたのである。光琳没後も、乾山はひとりで伺候して、懐旧談などにふけっていたであろう。学問を好み、芸術家の純粋さをいつまでも失わなかったかれにとって、二条家を中心とする元禄宮廷文化人と上流町人のサロン的ふんい気は、こよない楽しさであったと想像される。

江戸移住 
ところが享保十六年(一七三一)、六十九歳の乾山はどういう理由からか、老いの身をはるばる江戸に運び、深川の冬木家に寄寓するのである。この下向について、乾山は『佐野手控帖』に「王城の地を自らのなせる不首尾のままに」立ち去ったとしるしている。不首尾とは何かを知るすべもないが、七十歳の老人が幼時から住み慣れた京都を引き払って、はるかな江戸の地へ移るためには、とても京都にはいられない事情があったのだろう。かねてから愛顧をこうむっていた輪王寺官公寛法親王の供に加わって東下りをしたかれの心中は、察するにあまりある。
 江戸に下った乾山は、やがて入谷村に窯を築き、ふたたび焼物を焼きはじめる。窯は楽焼と本焼の両方あったらしいが、私たちは、入谷窯の作品と断定できる確実な作品をまだ知らない。陶工であるから土を扱わずには一日も過ごしがたかっただろうけれども、江戸の生活はいわば流謫の暮らしである。感じやすい乾山の心は、傷心のままに快心の作などとても生むことはできなかったのだと思われる。

佐野訪問 
こうして江戸在住の五年間は過ぎていった。享保は元文と改まる。改元の年(一七三六)とともに、冬木家を通じて乾山のもとにひんぴんと来遊をすすめる招きがとどく。それは下野国(栃木県)佐野庄の分限者、大川顕道や須藤杜川からのもので、渡良瀬と大利根の水利の要地として殿賑をきわめていたこの地のいわば町衆たちが、京の乾山江戸にありと聞いて、かれを佐野へ招待しょうとする企てであった。乾山ははじめは気がすすまなかったのである。江戸よりもさらに東の草深い田舎、老いの旅のつらさもあって断りつづけたが、ついに断りきれずに二、三カ月の訪問を試みることになった。元文二年(一七三七)早春、迎えの須藤杜川とともに船上の人となったかれは、よもやこの旅が一年の滞在となり、かれの陶芸の最後の花ざかりを誘発しょうとは夢にも思わなかったであろう。
 佐野での歓待は親切をきわめた。東国の田舎と思いきや、佐野は船足しげく往来する物産の集散地であり、文人・墨客の数多く寄寓する土地であった。杜川らの知識文化人グループの教養も高く、乾山を師と仰ぐ礼節も正しかった。老残の身心は暖い人の情に故郷へ帰ったように安らいだのである。かれは窯を築いて陶器を焼き、佐野の人びとへの贈りものにし、陶技を教えて、ともに焼物の楽しみをわかちあった。近在への旅もし、日光も訪れた。そしてその見聞や覚えを書きしるし、滞在は年を越えて翌三年の三月にまで及んだ。

佐野乾山 ここでの作品が「佐野乾山」と呼ばれるもので、乾山研究の貴重な進歩をうながしつつある。それは新鮮な感覚と熟達した技術によって、乾山のこれまで試みたあらゆる技法を実現しているからで、丁字屋町以来二十数年間の、つもりにつもった作陶への意欲を、爆発的に開花させた乾山芸術の総決算である(図39−41 挿79、82−84、12−11)。
私たちは二百点以上にのぼる佐野の作品のなかから、芸術的価値のすぐれたものを選んで検討することによって、乾山の芸術がどのようなものであったかを知ることができよう。
 かれの最大の創造である書と絵と陶器の総合的造形は、ここで千変万化の様態をつくして追求されている。書の体はのびのびとして、唐風と和風をあるいは使いわけ、あるいは融合し、乾山調ともいうべき名文で吐露されるくさぐさの想いを、みごとな美しさで書きつけてある。絵は漠画と大和絵の両者をこなし、宗達と光琳のいずれをも学びとり、ついにそれを乾山画に融合した様式をもつ。長年の工夫になるあざやかな色絵は、仁清の感傷を脱して豊かで雄々しい。そして、書も絵も、陶器の形に応じて心憎いばかりのデザイソで施してあって、私たちを、書を読み絵を楽しみ器全体を鑑賞する喜びにひたらせてくれる。この創造は、自由無碍という言葉がもっとも適切だ。乾山の美しさはここにきわまるといってよい。
 佐野から帰った乾山は、元文二年の大火に焼失を免れた入谷の窯でさらに製陶をつづけるつもりであった。しかし家は焼けてしまったので、深川六軒堀のある長屋に移らねばならなかった。窯を離れての製陶は意のままにならず、焼物よりも絵を描くことのほうが多くなったのであろう。七十六歳から八十一歳までの年齢を記した絵を、私たちはかなり見るが、そこには佐野の精力的な活気はもう失せているようだ。

「寂滅浄心」
 死は乾山を寛保三年(一七四三)六月二日に訪れた。『上野奥御用人中寛保度御日記』には、乾山は無縁の者で死後の世話をする者もなく、地主次郎兵衛なる者が葬式などの世話をし、上野宮より一両を費用として下されたと記してあったという。
 反俗の理想を掲げて習静堂に隠棲した青年時代から、長屋で病死する最後まで、乾山の孤独な一生を貫くのは、美しいものへの愛である。純粋さへのあこがれである。自然と人間に対するあふれるばかりの愛情をもち、鋭敏で純粋な詩魂を一瞬もくもらせることのなかった生涯である。およそ日本の芸術家で、いや世界の芸術家のなかで、乾山ほど花を愛した作家ははかにはあるまい。自然を愛し花を愛することを人生の喜びとする日本人の、もっとも本質的な芸術観を実現して見せてくれたのが乾山の芸術である。鳴滝から入谷にいたるまでに、かれが描いた花の数は何百何千の多きに達するであろう。その花の洪水のなかに身を埋めるようにして、乾山はかれの絵を陶器に焼きつけつづけた。花は乾山の絵に入ってもっとも花らしく咲きかおり、その美しさはかれの芸術を美しくするばかりでなく、花自身をも美しくしたのである。だから乾山の反俗の気骨は、厭世や虚無を呼ぶものではなかった。美しい自然に対しておぼれこむように心を開いたかれの姿には、どこにも世を拗ねた暗さがない。光琳をささえていた暗いかげりや激しいシニスムはない。それが乾山という人間を私たちが愛さずにいられない理由である。私たちが美しさというものについて思い惑うとき、乾山はかれの花を示してやさしく教えてくれるだろう。花を見なさい、花はけっして人を欺きはしない。花の美しさは嘘をつかない、と。
 それなのに、乾山の作品のどこかに沈重な寂しさがただようのはどういうわけであろうか。花の美しさを理解することができないで、偽りの美に惑わされる人びとへの悲しみか。私には、その寂しさは、孤独に生き孤独に死んだことへの寂しさであったとはどうしても思えない。なぜなら、乾山ほど花という友を愛し、そして花という友に愛された芸術家はなく、その意味では自然とあれほど親しかった宗達以上にしあわせな人であったといえるからである。乾山の寂しさは、詩人の寂しさだ。自然の美しさにとり囲まれ、心ゆくまでそれを愛したあとで、そのこと自体がどうしようもなく招き寄せるあの一種のむなしさ。人間存在、いや、この全宇宙の存在そのものの寂しさではなかろうかと私は思う。乾山にとっては、元禄の世相も、町衆の消滅も、芸術の自由も、ほんとうは大したこせではなかったのだ。美そのものさえ、あるときは仮幻の象と見えたのではあるまいか。無常迅速の世を生きぬいたかれの感慨は、佐野で作った美しい蓮絵の皿(図41)に記したごとく、「寂滅浄心」であったのではなかろうか。



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