上原勇作の略歴


●薩摩軍閥の巨星にして日本工兵の父
上原勇作吉薗周蔵氏の祖母ギンヅルの関係
上原勇作(1856〜1933年)は安政三年、都城島津藩士・龍岡資弦の次男に生まれ、のちに上原家の養子となる。吉薗周蔵氏の祖母であるギンヅルは四位次兵衛昌張と岩切某の子で、上原勇作の叔母にあたる。母は双子の妹を抱いて入水し、二人分を名乗るギンヅルは嫁入りする母の妹についていき、吉薗の養女になった。実際の生年は1836年らしい。
明治四年16歳で上京した上原は、ギンヅルの斡旋により、陸軍少佐・野津道貫の書生となった。戊辰戦争のおり薩摩屋敷や屯所に出入りしていたギンヅルは、薩摩の若手将校たちと親交があった。高島鞆之助大山巌川上操六黒木為禎西郷従道らいずれも軍功によって後年将軍、華族になった面々である。
山本権兵衛も野津兄弟も、無論その中にいた。


●欧州通の上原

はじめ大学南校でフランス語を学んだ上原は、のち陸軍幼年学校に入り、明治十二年(1879)年士官生徒第三期の工兵科を主席で卒業し、同十四年フランス留学を命ぜられ、グルノーブル工兵第四連隊付のあと、フォンテンブロー砲兵学校に学んだ。日本陸軍に欧州の科学知識と合理精神を伝えたから、後に日本工兵の父と呼ばれるようになる。
上原は明治十七年帰国し、同二十四年三十六歳のとき、十七歳年下の野津道貫の娘槙子を娶ったが、槙その縁組にもギンヅルが関係した。明治二十七〜二十八年の日清戦役で第一軍司令官になった岳父を扶ける第一軍参謀副官として活躍し、日露戦役でも野津第四軍の参謀長として著しい軍功をあげ、同三十九年に陸軍中将に昇り、同四十年には男爵を授けられた。


●陸軍内部での不遇時代

当時、陸軍の主流は山県有朋元帥を総帥とし、桂・寺内と続く長州閥が全盛であったのに比べ、薩摩は総帥大山巌が恬淡な性格のうえ、野津道貫川上操六が早く没し、高島鞆之助は中将で現役を退いて政界に回ってしまい、陸軍内では見る影もなかった。
それでも軍令畑(参謀本部)には辛うじて薩摩人がいたが、軍政畑(陸軍省)となるとまるで長州の独占であった。寥々たる薩摩健児の中で、上原勇作は陸軍内有数の欧州通として知られ、見識手腕ともに抜群で、長州閥にとって最も手強いライバルであった。
それを警戒した寺内陸相の計らいで、上原中将は軍中央から遠ざけられ、旭川第七師団長宇都宮第十四師団長と田舎回りをしていた。


●派閥解消運動の機運に乗る

明治末年、陸軍の派閥解消を進めようとする運動が参謀本部内に台頭してきた。中心は参謀本部第二部長・宇都宮太郎(士官生徒七期)と町田経宇(同九期)であったが、これに長州出身の田中義一大佐(同八期)が加わり、上原を担ごうとした。明治四十年、陸海軍首脳は二十五師団と八十八艦隊の「帝国国防方針」を策定したが、その陸軍案を作ったのは田中義一であった。
軍事課長の要職にあった田中は、故児玉参謀総長の薫陶を受け、山県・寺内両元帥の信任も厚い長州閥の寵児であったが、派閥争いより政策実現を優先して上原を担いだのである。


●陸軍大臣となる
明治四十四年八月三十日成立した第二次西園寺内閣の陸相は、上原勇作石本新六の争いになり、田中が上原を推戴したにも関わらず、次官として長年寺内陸相を支えてきた石本が選ばれた。その石本がすぐ過労死し、お鉢が回ってきた上原は、山県有朋元帥の推薦で明治四十五年四月五日、陸軍大臣に任ぜられた。



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