張作霖爆殺

(3)貴志彌次郎の苦悩


●張作霖の死で苦悩を深める貴志彌次郎

貴志さんは、紀州出身であり、張作霖の資金作りに協力されてこられた。
当然ながらそれは日本の国策でもあった。張作霖を生かし、満蒙を日本の物にすることであろう。
貴志さんは個人としても張作霖と親しくなり、故に例の宝物を紀州藩主に持ち込んだのであろう。然し、今となってはそうしたことまで悔いておられるようだとのこと。耳にするは、今の時期の話はせず日露戦争の時の話と乃木大将のことばかりを話をされておられるとのこと。

(ニューリーダー 2003年 9月号 原文はカタカナ)

貴志彌次郎中将は紀州の出身で、張作霖の軍資金作りに協力してきた。当然ながら張支援は日本の国策でもあり、張作霖をうまく使って満州と蒙古を日本の勢力化に置くことが真の目的であろう。20世紀日本にとって最大の潜在敵国はロシアであった。革命後のソビエト・ロシアになってもそれは変わらない。大陸軍国たるロシアの軍事的脅威を防ぐには、彼我の間に介在する満州・蒙古を中立化して緩衝地帯にするのが最も有効であるのが、逆にこの2国がロシアの支配に屈したとしたら、かえってロシアの脅威が増すことになる。ゆえに、わが方が先手を打って満蒙を押さえねばならない。といっても直接占領など望むべくもなく、張作霖や馬占山など地元の軍事戦力を支援して独立せしめ、裏から操縦するというのが陸軍の戦略であった。
貴志中将は個人としても張作霖と親しくなり、張作霖が秘匿していた例の奉天古陶磁を換金してやるために紀州徳川家に持ち込んだ。
しかし、今となっては、成功したその工作まで後悔しておられるようだ、と聞いた。貴志閣下は、風聞では、昨今のことを話さず、話題と言えば決まって日露戦争と乃木大将のことばかりとのことである。それまで一筋に仕えてきた上原に対する失望と、誠意を尽くして報われなかった己への憤懣の現われであろう

(落合氏解説)


●張作霖暗殺の裏にいる上原勇作を「告発」

貴志さん、腹の煮えくりかえるをどうしようもないらしい。
貴志さん、上層部に申告というより、告発をされたとのこと。
今更、軍部でとのように後悔されようともう死んだ者は戻らず、事の方向性は変わったのである。

(「ニューリーダー」 2003年9月号 原文はカタカナ)

わが大陸政策の要として、辛亥革命後次第に頭角を顕してきた馬賊出身の張作霖を支援して、奉天に独立政権を樹立させ、彼に満州を支配せしめて帝国の藩塀となす策は元々、参謀総長上原勇作の考えであった。
故に日本陸軍は、列強諸国に尻尾をつかまれない方法を駆使して、さまざまな形で軍事的・経済的支援を張作霖に行ってきた。人材的支援としては、関東軍附き参謀ないし奉天督軍(張作霖)顧問の名目で、貴志彌次郎はじめ町野武馬大佐など選りすぐった数人の将官・佐官を満州に派遣した。後に関東軍司令官として満州事変の功績で男爵を授けられた本庄繁大将も貴志の配下の大佐であった。東洋一と言われた奉天の兵工廠の如きも、砲兵中佐松井常三郎が大阪砲兵工廠薬莢製造所長を辞めて満州に渡り、直接指導に当たったものである。
列強の手前表立ってはできない経済的支援についても、上原は奇策を用いた。乾隆皇帝以来、清朝皇帝が奉天北稜に隠していた世界的な文化遺産の中国陶磁器を、大正3年たまたま張作霖が押収したのを奇貨として、日本の金満家にこれを密かに購入させることで、張作霖の資金作りを図った。はめ込み先の最有力候補として上原勇作が目をつけたのは紀州徳川公爵家である。
満鉄総裁特別秘書上田恭輔がこの作業に当てられて、張作霖側を工作する一方、上原は大正9年5月貴志彌次郎少将を奉天特務機関長に任じた。貴志が紀州の出身ということも計算の中にあった。しかし、秘宝のはめ込み工作は思いのほか難航した。関東大震災による一頓挫もあって、紀州徳川家を相手に750万円(現在の約750億円相当)の商談がようやくまとまったのは大正13年のことであった。
その間、貴志は張作霖との親交を次第に深め、その全面的な信頼を得るまでに至った。貴志配下の町野武馬大佐の張作霖支援が過熱したために、奉天政権と北京政権の抗争たる奉直戦争に際しては、出先軍人が行き過ぎて二元外交の幣に陥ったとして、閣議で非難を浴びたことまであった。

(落合氏解説)


そのような苦労を重ねながら、貴志たちは張作霖を支援してきた。その最後の苦労が金塊支援であったのに、回収が半ば終わったところで、当の張作霖が暗殺された。それをやったのが同じく上原の影響下にあった関東軍の一部軍人であったことで、まことに貴志は腹が煮え繰り返るのを押さえようもなかった。直ちに奉天に向かい、暗殺現場を自身で検証した貴志が、「これは、関東軍の言うような南方革命志士によるものではなく、日本軍人のやったことに間違いない」との報告を首相田中義一に提出したことは、史家にもよく知られている。ただし、史家や評伝家は、田中義一こそ貴志が最も敬愛していた上官との誤解から、この報告は貴志が自発的に田中に提供したものと論じているが、実情はそんなものではない。『周蔵手記』の記載から推すと、「実際は隠れ上原系」だった貴志が、この報告を田中に提出した真意は、告発であった。
上原元帥の政敵たる田中義一首相にわざわざ申告したのは、張作霖暗殺の裏には上原その人がいることを貴志が察知したからである。
貴志は初めて上原元帥のダブル・スタンダードに勘づき、張作霖との親交の日々を惜しんで、悔しがった。上原系将官の中にも、暗殺が上原の意思によるものと勘づいた者は少なく、逆に張の早すぎる死を惜しんだ者は多かったであろう。しかし、覆水は盆に戻らず、事の方向は変わったのである。

(落合氏解説)


●「上原サンガヰナクナレバ」

貴志さんを官舎に訪ぬる。元気なし。老け込まれた。
人から聞いた話のとおり乃木大将の話しかされなかった。乃木大将を思い出されては支那やロシアの事を話された。
例の勇敢な武勇伝ではなく、乃木大将が大層にしゃれ者だった話など個人的のことを話された。そんな中で、
「そう云えば上原さんは反対でしゃれないね、それに家も粗末で小さいね。下男は外から通う程だね」と云われた。思いだしたように。
「浜口は、やっぱり死んだねえ」

(ニューリーダー 2003年 12月号 原文はカタカナ)

貴志彌次郎は陸軍大尉として日露戦争に従軍し、戦争の後半は第3軍司令官乃木希典大将の副官を勤め、大将に親炙したから、乃木の身辺雑話に詳しいのは当然である。凱旋後は参謀本部に入り、任務で上官田中義一に仕えたため、史家は今日でも貴志を田中義一の直系と見ている。実は、貴志は上原勇作の腹心であったのだが、そのことを本人も上原も部外には厳重に隠していたので、史家が誤るのも無理はない。その貴志の、上原に対する忠誠心が変わったのは、張作霖暗殺を目の当たりにして上原のダブル・スタンダードに気がつき裏切られたとの感情が湧いたからである。貴志中将は最近、なぜか乃木将軍の話に偏るとの噂通りで、上原の腹心の周蔵に対してさえ、乃木のことしか語らない。そのうちに思い出したように上原に及び、乃木と対照するのを、一種当てつけの感情と周蔵は受け取った。貴志は上原に言及した後に、ぽつりと呟いた。「浜口はやっぱり死んだねえ」と。

(落合氏解説)


自分は「上原さんがいなくなれば、ああいう死に方はなくなるでしょうか」と云った。分かっていて云った。貴志さんから返事はなく、聞こえていないようだったが、間をおいて、「上原さんは、犬養と親しいのだねえ」とポツリと云わる。

(ニューリーダー 2003年 12月号 原文はカタカナ)



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