張作霖爆殺

(2)広がる上原不信と藤田嗣治の帰国


●彼もまた特務をやめる「淋しい話」

又、安太郎氏と会うと、淋しい話を聞く。
現実には、アムール河口は、とうの昔に手を引いておられるのであるが、ロシア人がそのままやられていたのであろうから気にならないのであるが、張作霖のこともあり、すっかり時勢の変化に純粋性を感じなくなられた由。軍のことからは手をひかれようと思われる由。歳は57になられるとのこと。
内幸町の事務所は閉められようと思うとのこと。来年一年かけて事業先の方の整理をし、再来年には事務所を無くされると云わる。函館だけにするとのことであった。
実は、自分も舌癌の方が痛みが強く、閣下には手を引かして貰うこと伝えたと云う。
これからは、と云われる。
甘粕さんが、戻られるを待って、考うるとしようと云うと、又、個人なら手伝うよと云わる。

(「ニューリーダー」 2003年2月号 原文はカタカナ)

周蔵は若松安太郎(本名:堺誠太郎)氏に会い、淋しい話を聞く。安太郎氏はニコライエフスクの沿岸漁業で有名な島田元太郎の妹婿であり、島田商会支配人として水産業を表稼業としてきた。革命後は雇い人だったロシア人が事業を引き継いだので、経営を気にすることもないが、張作霖暗殺を見てすっかり時勢の変化を感じ、軍の理念の純粋さに疑念が生じたと嘆く。もう陸軍特務から手を引きたいと思うとのことで、歳も57になられるらしい。
内幸町の事務所は閉鎖したい。来年一年かけて水産業の整理をし、再来年には東京事務所を廃する予定で、函館だけにするとのことであった。周蔵は、実は自分も舌癌の痛みがつのってきたので、上原閣下付特務から手を引かしてもらいたいと閣下に伝えたことを告げた。
要するに、張作霖暗殺を見て、上原元帥の特務たちはそれぞれに陸軍不信に陥った。いや陸軍というより、むしろ上原不信であろう

(落合氏解説)

安太郎氏から、これからどうすのかと問われた周蔵は、甘粕正彦がフランスから帰国するのを待って考えると答えた。上原特務の中では甘粕がトップだから、周蔵は彼の考えを確かめる必要があると思ってわけである。
甘粕と聞いて、安太郎氏はこの春のフランスでの密命遂行を連想したらしく、個人の仕事なら今後も手伝うよ、と言われた。

(落合氏解説)


甘粕さん、日本に戻られず。朝鮮に落ち着かれることとなる。

(「ニューリーダー」 2003年4月号 原文はカタカナ)

昭和3年12月条である。大杉事件で服役した甘粕正彦は千葉刑務所出所後、陸軍上層部の配慮で渡仏したが、この時点ではまだフランスにいて帰国を目前にしていた。帰国語の甘粕を「朝鮮に落ち着くことになる」と周蔵に教えたのは、むろん上原勇作元帥であろう。
角田房子著『甘粕大尉』によると、甘粕は昭和4年1月10日を以って帰国の途に就き2月末に帰国するが、帰国直後から大川周明理事長の東亜経済研究会(内幸町)に出入りする。同年7月初めて満州に姿を現わし、秋には妻を伴って渡満し奉天に家を構えた、とある。つまり、2月末帰国以後7月までの甘粕の住居は明らかにされていないのである。ところが、『周蔵手記』本条を見ると、甘粕は帰国後いったん朝鮮に住居を定めたらしい。もっとも、後出「藤田帰国の条」と「昭和5年4月条」を見れば、甘粕は長く朝鮮に止まらず、すぐに満州に移動したようである。因みに、周蔵筆法の通例として、側聞の場合には「落チツカレルラシヒ」として記すのに、ここの「コトトナル」との断定調査は異例である。上原から直接聞いた通りを記載したものではないか。

(落合氏解説)



●「思想変更ノ確認」に藤田嗣治が帰国

9月、藤田氏帰国さる。張作霖死亡とならば、目的の思想変更の確認が第一の帰国理由であろう。
自分もこれからの方向をつかみ切れないため、甘粕さんに会いに行こうと思うと伝うる。
上原も歳であり、軍部も内輪もめの傾向があるから、満州の現地がどう考えるかを耳にしたら連絡を来るるようにと云わる。
幡ヶ谷に寄られ、薩摩のこと聞く。まずは薩摩に文化事業をあてたことは、金を使うに最良だったとのこと。あんたは資金援助したらしいが、自分は絵を描いたよ、とのことである。

(「ニューリーダー」 2003年4月号 原文はカタカナ)

藤田嗣治がフランス人の妻ユキ(リュシー・バドゥ)を伴って神戸に入港したのは昭和4年9月28日。滞仏17年にして初めての帰国であるが、帰国の目的を藤田自身は「老齢の父に会いたい」と言い、ユキ夫人は「フランスでの莫大な課税を払うために日本で絵を売る目的」と言っていた。
画家であるから絵も売りたいし、父の嗣章も陸軍軍医総監から大正3年に予備役編入しており老齢であるから、会いたくもあろう。
それもこれも帰国の理由であることに嘘はなかろうが、これは表帳簿で、藤田には画壇が知らない別の一面があった。すなわち上原付き陸軍特務である。関東軍による張作霖暗殺を聞いた藤田は、草の根としての自分の立場の根底が変化したことをおそれ、確認のために帰国したのである。帰国した夫妻は帝国ホテルに止宿するが、早速どこかで周蔵と落ち合った。軍部の動向を尋ねる藤田に、周蔵は「自分も今後の方向に迷うので、甘粕さんに会いに行こうと思う」と告げる。藤田は「上原さんも歳だし、軍も内輪もめの傾向があるから、あんたが満州へ行って、現地で関東軍の考えを耳にしたら、すぐに連絡をくれたまえ」と頼んだ。
周蔵が「甘粕サンニ会ヒニ行カフ」と考えた行先は朝鮮であろう、前の昭和3年12月末条には「甘粕サン日本ニ戻ラレヅ 朝鮮ニオチツカレル コトトナル」とあるし、後の昭和5年4月条には「満州ヘ発ツ。甘粕サン満州ニ移動サレタラシヒ」とあるから、この時点では、甘粕はいったん朝鮮に落ち着いたとされていた。したがって周蔵の意図は、甘粕訪問は朝鮮、関東軍の実情探索は満州ということであったろう。藤田が幡ヶ谷の周蔵宅を訪ねてきたのは10月初頭であろうか。自宅とあってゆっくり話しができる。周蔵は気掛かりだった薩摩治郎八のことを尋ねた。「とにかく薩摩にパリでの文化事業を押しつけたのは、資金を遣わせるのには最良であった。あんたは資金援助したらしいが、私は絵図を描いたんだよ」と藤田は答えた。「絵図」とは計略の意味である。

(落合氏解説)


もう1月には出発の由。
やはり軍の先は見えない、と云わる。
がっかりしている様子。満州の方の見方、また教えてくれるようにと、繰返さる。

(「ニューリーダー」 2003年4月号 原文はカタカナ)

藤田は、もう来年1月にはフランスに向けて出発という。結局、日本陸軍の将来は読めないと言い、かっかりしている様子であった。関東軍がどう見ているか、わかったら教えてくれという依頼を何度も繰り返す藤田嗣治。張作霖事件は明治以来の日本陸軍の進路転換を意味する。それほどの大事件なのであった。

(落合氏解説)


●甘粕正彦を訪ね、資金を携えて満州

『周蔵手記』 本紀 昭和五年四月条

四月満州へ發つ。甘粕さん満州に移動されたらしい。訪ぬる。
二ヶ月程の予定。

(ニューリーダー 2003年 9月号 原文はカタカナ)

昭和五年四月、周蔵は二ヶ月の予定で満州の旅に発った。目的は張作霖爆殺後の帝国陸軍の動向を見極めるためで、藤田嗣治からの依頼を受けていたが、何よりも周蔵自身の欲求であったろう。満州を目的地とする理由は、甘粕正彦がそこにいるからである。
甘粕はフランスから帰国した直後は、朝鮮に落ち着く予定であった(前述)が、結局満州に移った。甘粕のこの移動は、帝国陸軍の大陸政策の策源地が朝鮮から満州に移ったことを受けたものと言えよう。もう一つは貴志彌次郎中将の存在である。貴志は大正十三年に予備役編入した後も、市ヶ谷の陸軍官舎に落ち着かず、東京と満州の間を往来し、むしろ満州にいるほうが多かった。つまり満州に行けば必ず貴志に会えるから、貴志から軍部の動向を聞き出すことも、今回の目的であった。(ここに横線あり)

(落合氏解説)


例の金塊を持って行く。甘粕さんは これから、きりがなく 資金が必要であろうから、
大した金額ではないが、預金をはたいて行く。

(ニューリーダー 2003年 9月号 原文はカタカナ)

甘粕が満州で何を始めるのか知る由もないが、何にせよ資金を必要としていると察した周蔵は、みやげとして、以前上原勇作元帥から賜った金塊を携行した。これは前年の春に密命で渡仏した時に持ち帰った物品の一部で、上原元帥から褒美として賜ったものだが、金銭的価値があるから甘粕の資金にできれば、と思ったのである。また、さほど大金でもないが、これまで貯えてきた預金もすっかり引き出して持参した。周蔵は甘粕の金遣いの荒さを知っていたが、明確な目的があってするものと見ていたから、浪費癖にも好意的であった。

(落合氏解説)


●甘粕、石原両名の思想ニハ驚ク


△甘粕さんは さすが このくらいのことで動揺されるでもなく 石原氏と密にやっていかれるらしい。
△自分も同席にて 支那料理を喰わして貰うが、石原氏 私服のため階級分からず。
その遠大なる構想は 驚くばかりである。三十年計画の日本を描いていて、正に着実にそれに
向けているのであるから、この両名の思想には驚く。
やはり張作霖をやったことは誤りのようである。

(ニューリーダー 2003年 9月号 原文はカタカナ)

張作霖暗殺後の陸軍の政策の流れを見極めるために満州に来た周蔵は、目的の人物たる元憲兵大尉甘粕正彦に会う。強固な信念と凛々たる勇気を以って周蔵を敬服させた貴志中将は、武弁特有の純情な性格のため張作霖暗殺では傷ついたが、甘粕は性本来謀略気質に富むうえに、数多くの修羅場を潜ってきていた。入獄さえも胆を練る機会としたのか、さすがにこのくらいのことでは動揺していなかった。甘粕は満州で、石原なる軍人と密かに協同して、今後の政略を練っていくらしい。
甘粕に招待された支那料理の宴席で、周蔵は石原莞爾を紹介されたが、和服の着流しで現れたこの軍人の階級がわからない。明治二十二年一月生まれの石原は、士侯二十一期の卒業で、この時四十一歳であった。甘粕よりも二歳、周蔵よりは五歳の年長である。大正十一年九月、石原大尉は陸大教官のままドイツ駐在を命じられ、駐在中の大正十三年に少佐に進級、帰国後も陸軍大学校教官に就いていたが、昭和三年八月中佐に進級し、同年十月には関東軍参謀に命じられ、旅順に居を構えていた。石原の構想力は実に驚くべきもので、三十年後の日本を計画していて、まさに着実に、それに向けて実行を進めている。その計画に甘粕が密かに加わっているのを知った周蔵は、両名の思想に驚嘆する。二人との話の中でも、やはり張作霖をやったことは誤りであったらしい、と周蔵は覚った。(ここに横線、張作霖のことか?)

(落合氏解説)


●蒋介石ガ 浮上スル 誤リガ 起ル

これで 蒋介石が 大きく浮上する と云う誤りが そこに起こる と云うこと なのだろう。
角力でも、東西の横綱があって うまくいく。
蒋介石だけになり、それしか人物おらずでは 敵の思う壺 となると 云うこと か。
閣下(上原)は 何故 その方策をとられた のであろうか。
田中義一を うるさいと思う あまりにしては 計が なされなかった と思ゆる。
田中が失脚になっても まだ あきたらず ○○○を 抱き込むまでにしたのか。
△中野の女の 言であるから 話が半分だとして 疑問は残る。
また、不確なこと故 誰にも喋らず。

(ニューリーダー 2003年 9月号 原文はカタカナ)

中華民国の政情はここに蒋介石張作霖の両雄対峙の様相を呈した。その一方たる張作霖が暗殺されれば、蒋介石が大きく浮上するのは当然である。これは日本にとって最大の誤りであった。相撲の興行でも、両横綱が健在で東西に両立していることが成功の条件である。ところが政権トップが蒋介石だけになり、他に人物らしいものがおらず、蒋介石に権力が集中すると、日本側からうまく操縦することができなくなる。これはつまり日本の失敗を願う敵国の思う壺である。こんなことは周蔵でも察しが付くのに、陸軍内でも抜群の頭脳で知られた上原閣下がなぜその方策を採用したのであろうか、と周蔵は理解に苦しむ。ことごとく自分に楯突くようになってきた田中義一をうるさいと思う余りの行為との解釈もできるが、それにしても計略が粗末過ぎると思う。田中は、張作霖暗殺における帝国陸軍の関与の有無について昭和天皇のご詰問にあい明白に関与を否定したが、そのため後処理の責任を負ってしまう。蒼惶として御前を退出した田中はそのまま首相の座を辞した。そこまで追い込んだ上原閣下は、それでもなお飽き足らず、○○○(伏せ字)を抱き込んで、田中を物理的に始末するまでにしたのだろうか。
もっとも、この裏話は中野正剛の愛人の言であるから、話半分としてもそのまま信じることはできない、と周蔵は感じた。また、それほど不確かなことであるから、誰にも口外しないことにした。

(落合氏解説)



「上原勇作」に戻る

「吉薗手記」に戻る


Mainページに戻る

(Since 2000/06/03)