甘粕正彦





4)出獄後の渡仏に関して


昭和2年7月、甘粕は渡仏します。角田房子の「甘粕大尉」では下記のように、この時期を救いようのない暗い時代として書いています。

囚人であった時より、私には一層みじめに感じられる甘粕のフランス生活がこの時から始まる。
幼年学校、士官学校で習ったフランス語が、パリで通じるはずもなかった。
甘粕は甘粕で、何のために自分はこの異国にいるのか −− というトゲのような問いかけに、絶えず心を刺されていた、と想像される。ことの行きがかりで、来たくもないフランスに来てしまったのだが、ここには何の目的もなく、果たすべき義務のひとかけらもない。

ところが、「吉薗手記」によると、その時期に甘粕は、画家の藤田嗣治を使って諜報活動を行っていたとの事です。落合氏のHPに周蔵氏と藤田との共同の活動に関する記述があります

周蔵はスイスに藤田に同行した。目的の建物へは、初めに藤田が入って行き、周蔵を招き入れた。目的を果すにはここでなく、アルザスに行く必要があることが分かった。
当地には、安太郎氏が先に来ていた。それも、驚いたことに甘粕と並んで、道ばたに立っていた。

甘粕正彦は、昭和二年初頭、震災直前からの婚約者服部ミネと結婚し、七月に夫妻で日本を発ち、八月三十日にパリに着く。陸軍士官学校の同期の澄田来四郎が、大正十三年以来官費で当地に留学していたが、陸大主席の澄田にして単身赴任であった。
刑余者の身で甘粕が夫婦同伴とは破格も破格で、その資金出所はいまだに謎とされている(馬野周二博士によれば、博士の祖父が一部出捐したそうである)。
甘粕はフランス語の鍛錬と称し、澄田に頼んでオルレアンに移り、十二月頃にはパリに戻っていたが、昭和三年一月中旬からルアンに移ったとされていた(角田房子「甘粕大尉」)。
ところが、ルアンにいる筈の甘粕が、実際には若松安太郎や藤田嗣治と、スイスからアルザスに回っていたのである。現実の甘粕は、裏側の妻君が日仏混血で、すでに二度目の渡仏ともなれば、フランス語には不自由はしなかった。
それを角田が、甘粕をフランス語苦手の田舎軍人崩れのように暗く描くのは、甘粕の実態を歪めるための妖しい魂胆であろう。満州国で甘粕の信奉者だった武藤富男は、「私と満州国」の中で、甘粕が渡欧の途上、まるで鳥の囀るように流暢にフランス語を話したと記している。真相はこのように、どこかで暴露されるのである)。

周蔵は、安太郎氏に会うために一旦建物の外に出て、そのことを伝えた。甘粕がここから仲間に入って藤田とアルザスを回り、安太郎氏はここで一仕事。あとは周蔵が単独行動で、コクトー紹介のスイスのコレクターの処にクレーなる画家の絵を見せて貰いに行く建前であるから、形式的にせよそれを実行した。結局安太郎氏はひとりでパリに戻り、藤田も一人で戻ることになった。

周蔵がパリに戻った時、藤田も同時くらいに戻ってきたらしい。周蔵はまたも、コクトー推薦の別の画家(ルドン)の絵を見せて貰うこととなり、郊外に向かう。現地に着くと、そこに甘粕が居た。スイスの帰りに、藤田とアルザスへ回ってきたのである。

これを読むと、渡仏時にも目的を持って諜報活動を行っており、満州国に渡ってからの活動と無理なく繋がるように感じます。


少なくとも、角田房子が書くように
大杉殺害事件で甘粕は獄へ送られたが、事件の影響に最も深く心をえぐられたのは囚人時代よりルアンであった、と想像される。他人から加えられる害ならば抵抗のしようもあっただろうが、甘粕の精神を深淵につき落としたのは彼自身であった。この陰惨な時期が跳躍台となって、やがて彼は”満州の甘粕”へ飛翔した ― と私には思われる。
と無理にこじつけなくても説明が付くと思われます。

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