甘粕正彦

6)周蔵氏との出会い

*大正9年1月30日、周蔵氏は上原閣下の家で甘粕正彦を紹介されます。
1月30日
閣下宅訪問
久しぶりにて鎌田氏と会う。閣下は留守であるが 鎌田氏言わるに
「一度満州にケシの指導を頼みたい」の由。
同席していた人物に「この人のこと覚えていて下さい」と自分を指して紹介さる。

憲兵司令部副官 甘粕と名乗らる。
自分としては 只 頭を下げる。鎌田氏は
「ウイーンの時は 武田何某であるが、今はタバコ屋小山ケン一とでも言うのかな」
と言ったあと、小声にて「例の」と 吉薗と言う名で 誰か動いているのであろうか。
甘粕なる人物から「以前に一度 さる所で見かけましたよ」と言わる。

( 「ニューリーダー」1998.11月号掲載より)原文カタカナ

甘粕は「憲兵司令部副官」と名乗っているが、これは「朝鮮憲兵司令官副官」の意味と考えられる。八年の三月事件(マンセイ事件)で手柄をあげた甘粕中尉は小泉憲兵司令官の副官に抜擢されるが、東京憲兵司令部の副官にはなっていない筈である。おそらくこの時に甘粕は転任の内示を受け手上京し、上原に報告しに来訪していたものと思われる。
(落合氏解説)

周蔵氏は裏の特務活動を隠すために呉秀三の巣鴨医院の出張所のような性格を持った救命院を運営していましたが、翌日、そこを甘粕中尉が訪問しました。

甘粕の来訪に驚く
自分が動揺を表したせいか「個人として伺ったのであり 閣下始め、軍人としては見ないで欲しい。」と言わる。幸い藤根さんが顔を出してくれたことから、空気が柔らかくなり、「酒を」ということになった。
憲兵と思うから恐ろしいというだけで、人柄温厚にして温かい好人物である。
自分が閣下直属であることで、珍しいと思い関心を持ったのと、偶然に薩摩県人会に招かれた時、権兵衛閣下と県人会で話している様子を見たので、「どういう人かと思っていたのだ」との事。ちなみに甘粕さんは山県の米沢藩士とのこと。
明治24年2月6日生まれ。話してみると好人物に安心す。


( 「ニューリーダー」1998.10月号掲載より)
原文カタカナ


甘粕が周蔵氏を訪ねたのは、伊達順之助を匿って欲しいとの依頼のためでした。

藤根さんは、感が良く、甘粕さんの様子から、自分に何か話しがあって来たのではないかと思ったらしい。良い機嫌になって先に帰る。
甘粕さん早速話しをして下さる。
「訳あって人を一人しばらく匿って欲しい」との事。
伊達順之助なる人物にて、匿うと言っても隠れ住むなどができる人物ではない。只、いつでも逃げ込めるような所が欲しいとのこと。 了解す。
「当分は完全に隠れていなければならない」との事。小菅村を説明す。
自分と親爺殿しかいないと言うと、喜ばる。又、市内であれば、弁天町のことなど話す。喜ばる。

( 「ニューリーダー」1998.10月号掲載より)
原文カタカナ

*甘粕は早速夜中に連れて来ようとしますが、当時の救命院には佐伯祐三や社会主義者である徳田球一が居ついていたため周蔵氏はその事を説明しています。結局、奥多摩の小菅村と牛込弁天町のアジトを提供しました。
甘粕さん、早速夜中にでも伴って来られると言うので、仕方なく、佐伯と徳田さんのこと話す。自分が尾行されたことがあったことを言う。
それでは直接、明日には行くとのこと。
自分は、いち早く行くことにする。巻さんに伊達さんの食事のことたのめるか聞く。
小菅村も弁天町も了解して下さる。
もし弁天町心配であるなら越谷に信用できる人いるから頼めるが、思うに万一の時は幡ヶ谷が良いと言わる。
巻さんに打ち明ける。特務であり、秘密が多いこと守れるかと聞く。
守れますと言わる。はっきりと言わる。一か八かと思う。


( 「ニューリーダー」1998.10月号掲載より)
原文カタカナ

*ここでいう伊達順之助は、張作霖の暗殺を企てて満州から帰国させられた元仙台藩主の子です。彼は、後に山県有朋暗殺を企てた事で有名になりますが、落合氏は、甘粕が山県有朋暗殺計画に関係があると見ています。
ところで伊達順之助はなぜ隠れなければならなかtったのか。また、なぜ甘粕が、伊達の世話を周蔵に頼まねばならなかったのか。
伊達順之助の名前を知る人は、今なお少なくない。壇一雄の小説『夕陽と拳銃』の主人公といえば、読んだことはなくとも、その名に思い当たる人はさらに多いであろう。伊達は中華民国に帰化して張宗援と名乗り、満州国の上将(陸軍大将)となったが、第2次大戦後に日本人戦犯とされ、昭和23年9月、上海で刑死した。

山県有朋暗殺計画は従来の伊達順之助伝には必ず触れられているが、小田原の別荘に忍び込むとか駅夫に化けて襲撃するとか、あまりにも単純な企画だけで実行せず、ついには六郷鉄橋の爆破まで図ったという子供騙しのような逸話を並べるだけである。
しかし、事実はそのような単純なものではないと私(落合)は思う。甘粕の暗殺計画への関与は、角田、武藤らの従来の甘粕伝には記されていないが、伊達順之助の伝記には触れられている。東京都副知事の秘書であった都築七郎の『伊達順之助』には
伊達が憲兵中尉甘粕正彦引き入れたが、甘粕は賛意を表したものの、元老暗殺よりも左翼思想弾圧を重視したため、実行計画には加わらず、むしろ主家の嫡男の身上を懸念した」とする。
胡桃沢耕史による伊達順之助伝『闘神』は、暗殺を持ち掛けてきたのは甘粕だが、結局、甘粕自身は実行計画には加わらなかったと記す。これでは首謀関係が反対である。
「真相はどうか。『周蔵手記』を見れば、甘粕が山県暗殺に加担していたことは明らかである。しかも、実行行為にはさすがに加わらなかったが、甘粕が陰で伊達を操縦していたフシがある。時に伊達28歳、甘粕29歳で血気盛んな時期だが、その後の行動をみるに、伊達は熱血の度が過ぎる典型的な豪傑肌の満州浪人、甘粕は冷徹この上もない謀略家で憲兵でもある。この二人が自然に結びつくことはありえまい。どこで二人はそんな仲になったのか? (中略)
この事件、甘粕の背後にいたのは、ずばり上原勇作であろう。大正陸軍の主力を固めていった上原が、元帥山県有朋が予想もつかぬ長寿によって前途を塞ぐのがいかにも疎ましかったはずである。」
大正3年、海軍の総帥山本権兵衛をシーメンス事件によって葬った上原勇作は、宮中某重大事件を奇禍として、陸軍内の目の上の瘤である山県有朋元帥を倒すべく画策していた。山県元帥の跋扈を嫌う上原勇作に命じられた甘粕中尉は、実行者として伊達順之助に白羽の矢を立て、然るべく使嗾した。(中略)
伊達たちの所業はすぐに密偵の探るところとなり、伊達の身辺が危うくなってきたので、心配した上原は、甘粕に命じて密かに周蔵に伊達順之助を匿わせようとした。
これが甘粕の来訪となったのである。

( 「ニューリーダー」1998.11月号掲載より)




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