甘粕正彦

8)出所した甘粕正彦と上原勇作の隠し子

●甘粕正彦の出所
大正15年、甘粕正彦は出所します。それに関する「吉薗手記」の内容を紹介します。ただし、これは通例の内容とはちょっと違う部分があります。

末ピ
この月の 何よりの喜びは甘粕さんの特赦減刑にて仮出所された。
フランス留学も一緒にされたという妻君がいかばかり喜ばれたであろう。
自分も非常に心強い。
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フランスから また手紙届く。

( 「ニューリーダー」2001.016月号掲載より 原文カタカナ)

〔解読〕
大正15年10月末日。この月の最大の喜びは尊敬する甘粕正彦が特赦減刑で仮出所されたことである。先年フランス留学を一緒にしたという夫人が、いかばかり喜ばれたであろう。自分も甘粕さんと自由に会えることができて、非常に心強い。
フランスからまた手紙が届いた。

〔解説〕
甘粕の仮出所は10月9日のことであった。周蔵は「特赦減刑」と記すが、これは正確でなく、法律的には「仮出所」である。
問題は甘粕夫人のことだ。通説では、甘粕は大正12年8月に服部ミネと婚約したが、大杉事件のために結婚は果たせず、出獄後の昭和2年の春に結婚した。新妻を伴って渡仏するのは同年7月で、これが初めての留学である −− とされている。しかし、甘粕が軍務を放擲し、宣教師ポンピドー(彭波得)についてフランスに行ったことは、大正10年の『上高田日誌』に触れられていて、渡仏の時期を大正8年と周蔵は推定している。
だからこの条の内容も本来驚くことはないのだが、それでもうすら寒いものが脇の下を走ったのは、「フランス留学に妻君と同行した」とある箇所である。ところが、後日、戦後に書かれた『明子に残す文』に、貴志彌次郎予備中将が周蔵に、甘粕に騙されるな、と注意して、「夫人も君が思っている人とは別人だよ」と教える場面を発見し、納得するとともに深く感嘆した。

( 「ニューリーダー」2001.06月号掲載より)


『周蔵手記』昭和3年の条に、上原勇作の密命で渡欧した周蔵と若松安太郎(堺誠太郎)は、現地で甘粕と会い、日仏混血の女性の噂を聞く場面があります。

閣下の子供だと思える女だったとのこと。
「母親は昨年亡くなりましたと上原に伝えてほしい」といわるとのこと。
女は混血だったと云わる。年齢は少なくとも35ぐらいではないか、とのことである。

( 「ニューリーダー」2001.06月号掲載より)原文カタカナ

その女性は上原と多分ポンピドーの妹の間にできた娘である。35歳といえば、明治24年生まれの甘粕の一つ歳下くらいである。一方、大正8年に甘粕が、ポンピドーの帰仏に同行した時に伴ったゼロ号夫人は、ポンピドーの姪と伝わる。とすると、この女性と属性が重なる。
元帥上原勇作伝』によれば、上原は明治14年4月に仏国留学を命ぜられ、18年の末に帰朝した時、30歳になっていた。22年3月には小澤武雄中将に随行し、欧州各国を視察し、年末帰朝の途につき、翌年1月に帰朝した。野津道貫の長女槇子と結婚するのは明治24年で、すでに36歳になっていた。
その次の渡欧は明治32年4月から10月まで、ハーグ平和会議出席のためである。
このように青年時代を陸軍と欧州、ことにフランスで過ごした上原は、晩婚の傍ら、早くから上総一宮の別荘の主(日高尚剛の姉?)を秘密の愛人にしていたが、フランスでも艶福に恵まれていたらしい。混血の女性がフランス生まれなら、明治22年の訪欧の時にできたもので、明治23年生まれの37歳、甘粕の一年年長になる。甘粕は、周蔵達に対してはとぼけていたようだが、甘粕の愛人はこの女性そのものという可能性が高い。
フランスからの手紙とは、ネケル(藤田嗣治)からのもので、別紙記載にその詳細があるものと思われる。

( 「ニューリーダー」2001.06月号掲載より)





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