周恩来

若き日の日本での活動

●周恩来の日本での活動

京都の親戚の家で、日記を書いていると一人の若者が肩越しに覗き込んで来ました。

カレヲ 書ヒテヲルト
日記ヲツケルハ良ヒ事ナリ 自分モサフシヤフカト思フ
ト他人ノ物 ノゾキ込ンデ 声ヲカケタル 人物ガヲル。孫息子ト大分 懇意デアルラシヒ 支那人ノ
居候ナル人物 ト云フラシイヒ 名ノラル。
京都ノ大学ニ 行ク資格アルモ 行カヅ 毎日物見シテ 遊ンデヲル由。
マルデ 石光サント 同ヂヤフダ。多分 日本ヲ偵察シテオルノデアラフカ。

振り向くと、20歳前と見える美少年が、白い歯を見せて微笑んだ。多少なよなよとした感じがある。
「これが例の居候か」と思っていたら、「周トイイマス。名ハ恩来デス」と、周蔵の鉛筆を取って、机上の
白紙に、大きな文字で書きつけた。

光緒24(1898)年生まれの周恩来はこの年19歳で、周蔵よりは4歳、王希天より2歳年下である。
この年、全科目平均87.2点の優等成績を以って南海中学を卒業し、呉達閣の後を追って日本に
渡ってきた。

渡航費用を出したのは南開中学の創立者厳範孫である。同校の日本留学生の派遣目的は、人材育成
だけでなく諜報工作にあることを、日本官憲はすでに掴んでいた。ハン・スーインの周恩来伝記『長兄』には
「東京へ着いた恩来は、南海中学の同窓生の世話で、牛込の大工の家の二階に下宿し、東亜高等予備校
に入学した。その後、東京(高等)師範学校へ入るつもりであった」と記す。同窓生とは王希天であろう。
(ニューリーダー 1997.9月号掲載分より)

落合氏は、周恩来の卒業した南海中学(クリスチャン系のエリート中学で米国の布教団体からの援助の下に、中華と西洋の教育の特徴を併せて次世代の中国人を養成することを目標に掲げる)を密かにスパイ教育を施していた事を指摘しています。
周恩来ら民国留学生の世話を焼いたのは、2年前に来日していた王希天である。王は南海中学から派遣されたスパイで、それもプロ中のプロであった。佐野眞一著の正力松太郎伝『巨怪伝』には「王希天には、早くから警視庁の尾行がつけられていた。王に遅れること2年後に来日した周恩来や、堺利彦、山川均、大杉栄ら社会主義者との接触も,当局の神経を逆なぜしていた」とある。当然ながら、当局はすでに王のスパイ行為に気付いており、後を追ってきた周恩来も、日本の公安当局監視下に置かれていた
周恩来が下宿した「牛込の大工の家」というのは、実は牛込区箪笥町にあった藤根大庭の持家である。そこは3軒並びの2階屋に、藤根配下の大工の3家族が住んでいた。その一人でクリスチャンとなった八代は、腕は素人に近い叩き大工であったが、後に佐伯祐三のアトリエを建てた時、佐伯が描いた肖像画によって顔貌が今に伝わっている。この大工たちは3人とも藤根の下の「草」で、2階に民国留学生を下宿させたのも公安上の目的だった。
(中略)
聴講生の資格があるのに、京大に通学するでもなく、毎日ぶらぶらしている周の姿に、周蔵は特務活動に勤しむ石光真清を重ねて見た。渡欧の途上で寄航した英国領の街中で、石光はいつもああいう風にして観察していた。周恩来は古都を逍遥する風を装い、日本を観察しているのだと確信した
(ニューリーダー 1997.8月号掲載分より)


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