シーメンス事件

大正政変の舞台裏 − 上原勇作が山本権兵衛を屠る


●大正政変の後半: シーメンス事件のはじまり
大正政変の後半部はシーメンス事件である。この事件は大正三年一月二十三日、島田三郎が一通の電文を片手にして行った政府糾弾の演説に始まる。島田はかつては国民党の代議士会長として桂内閣を弾劾していたが、桂の新党に参加するため大正二年一月二十一日、国民党を脱党し、十月に急死した桂に変わって新党を設立した加藤高明の立憲同志会に入っていた。
シーメンス事件の事件の刑事事案そのものは、歴史の教科書にも載るように、海軍が外国会社に発注した軍需品に対する贈収賄事件である。たまたま海軍内閣だったから、この問題は政争のの具となり、山本首相と斎藤実海相に攻撃が集中した。野党は政府不信任の意味から海軍予算を削減せんとし、与党絶対多数の中を世論の支持を得て、これに成功した。
さらに二月十日、野党連合は政府問責決議案を提出したが、否決され、世論は昨年同様に沸騰した。民衆が議会を包囲し、政友会党員は危険に曝されたので、午後三時三分、原内相は東京衛戊総督に出兵の要請をしたが、軍隊がなかなか出動しない。再三の要望に対しても楠瀬陸相は冷淡である。朝鮮駐箚憲兵司令官・明石元二郎中将が策謀のために上京してきたとも伝えられ、陸軍はどうやら山本内閣の倒閣を画策しているフシがあった。
頼みの陸軍が動いてくれないから、警官隊は抜刀して群集と対峙した。余計に興奮した民衆の暴動は収まらない。貴族院でも内閣に批判的な動きが見えたから、さすがの山本権兵衛も三月二十四日、政権を投げ出した。
ところでその間、上原勇作自身は何をしていたか?

大正政変の第一幕、すなわち閥族打破・憲政擁護運動の発端をなした張本人の上原は、任地の名古屋第三師団に赴任せず、大正二年六月九日、待命になり、大阪日赤病院と夙川の大林義雄の別荘で、療養という体裁でひたすら世間の風浪を避けてきた。上原はその間(周蔵手記が初めて明らかにするように)密かに東京に戻り、シーメンス事件をしかけていたのである
薩摩男子を自覚する周蔵は、人の好い
山本権兵衛を最も敬愛していた。大正三年夏、島田三郎の上原邸来訪を見た周蔵は、シーメンス事件は上原が糸を引いていたとの疑いを持った。大正六年になって上原が泰平組合事件の処理工作をしている現場を見たとき、それを確信し、思い立って内密に山本に報告した。直接それに返事をくれなかった山本だが、周蔵を徳として、西郷従道邸の薩摩県人園遊会に、海軍から正式に招待してくれた。
山本は周蔵を呼んで物陰に連れていき、両手を握り
「オマンノ気持ハウレシカ」
と礼を言ってくれた。
さらに昭和二年の末、渡仏を前にした周蔵が、夜陰に紛れて山本権兵衛邸を訪ねたとき、山本は上原を評して言った。
「アン男ハ マッコト汚カトコ アルカラ、ヲマンモ 気ヲツケントヰカン。策ヲスル時ハ 何カノ会議ヲシテヰルヤフニ見セテ、自分ハトンデモナヒ所デ指示ヲシタリシテヰル。後ニナレバ アノ時ハカノ会議ニ出席シテヰタト云ヘルカラダ。」

大正六年九月二十六日、周蔵氏は上原邸を訪ねます。
サノ後 戻ラルル人ノ顔ブレニ ヲサレヲナシテシマッタ。ダフヤラ 閣下ハ シーメンス事件ノ事ヲ 腹ニ入レテ泰平組合ノ事ノ 後処理ヲシテヰルノデ アラフカ。
△只、 自分思フニ シーメンスハ 権兵衛サンヤラレタナと思フ。 ダチラニシテモ 策ナクシシテハ 何事モ ヲサマル ハヅモナク サコニ汚職ガ ヲコレバ 嫌ナ事ニナル。
△親父殿 加藤君ガ 云ハレタヤフニ 確カニ 陸海ノ両方ニツキアフハ 不可能 デアル。
権兵衛内閣ノ破綻ト共ニ 権兵衛閣下自身ガ弱クナッテヰル。 ヲマケニ 身躰モ 弱クナッテ カノ所 弱リ目ニタタリ目ラシヒ。
△自分トシテハ 深ク考ヘルノハ ヤメニシテヰルガ、嫌ナモノヲ見タ トヰフ 気持ガ避ケラレナヒ。玄関ヲ出テヰク 後ナド見ヘルニ、サノ顔ブレハ平田東助、有地品之充、田、小松原、江木 他政友會ノ数人ガヰタ。

会合が終わって、ぞろぞろと来客が引き上げる。周蔵の控えている部屋からは、後ろ姿が丸見えである。玄関を入った廊下の突き当たりから見ているから、後ろ姿はことにはっきり見えた。
平田東助は官僚出身の子爵(のち伯爵)で、米沢出身だが山県系官僚閥の重鎮であった。その孫がのちに松下電器産業会長になった松下正治である。有地品之充男爵は長州出身の海軍中将、田健次郎男爵は元内務官僚、小松原栄太郎は元文部大臣、江木千之は元熊本県知事であった。いずれも山県有朋に繋がる貴族院議員で、吉薗が記していない武井守正男爵(元石川県知事)を含めた六議員が大正三年二月六日、貴族院の幸倶楽部に会合した。
世にこれをシーメンス事件の強硬派六議員というが、彼らの用いた「反対のための反対論法」は、きわめて粗雑乱暴なものであった。それだけ見ても,シーメンス事件が海軍総帥山本権兵衛の内閣に対し、陸軍総帥山県元帥が対抗意識に基づいて仕掛けた政争以外の何ものでもないことが分かる。二十三歳の周蔵でさえ、そのことは察知し、「権兵衛サン ヤラレタナ」と思い、また陸海の双方とつきあうのは到底不可能なことをこれでもって実感したのである。
周蔵はここに、三年前のシーメンス強硬派議員が顔を揃えたのを見て、上原参謀総長が泰平組合事件の後始末をしている最中であると察した。今宵、上原は五議員を呼び、何らかの手段を講じて議会対策を打っているものとみえる。
そのように推理した周蔵は、山本権兵衛の心境に思い当たり、嫌な気分になった。


権兵衛サンハ 薩閥ノ長デアルカラ 閣下ニハ 良シトセヌトコロモ アルカモ シレナヒ。宮崎ハ ドッチツカヅノ所デアルシ 小藩ガ寄リカタマッテルノダカラ、閣下ノ所モ吉薗ト サフ変ハラナヒダラフ。内竹ガ大久保、木下ガ秋月、岩切ハ薩摩ノ分家ノ一派
カノ中デ サノ時々ニ 強ヒ方ニ傾ヒテキタ ノデアラフシ 閣下トテ 宮崎デアル以上 同ヂコトガ 見ヘルデアラフ。
権兵衛流ノ薩閥ニ 傾倒シテヰクコトハ 気持ノ芯ガ許セン カッタノカモシレン。
然シ、サノ人物ガ アノ 人ノ良ヒ 磊落ナ権兵衛閣下ヲ 相手チュフコトガ 何ニシテモ 苦シヒコトダ。
然シ、島田ハコッチカラ動カサレタコトニハ 違ヒナカ。


山本権兵衛は海軍の総帥であるとともに薩摩閥の長であった。山本を狙って、あそこまで叩いたのは、海軍潰しに名を借りた薩摩潰しであった。
上原は薩摩人と見られているが、実は宮崎出身である。その土地は小藩が群居しているから、住人の心中は複雑である。権兵衛流の単純率直lな薩摩閥に傾倒していくことに、素直になれなかった上原が、シーメンス事件の策謀に重要な一役を果たしたことが、読み取れる。それにしても、上原の直接攻撃目標が、よりにもよってあの善良な山本閣下とは・・・そう思うだけでも周蔵にとっては苦しいことであった。しかし、あのとき上原邸の玄関で見た立憲同志會の代議士島田三郎の姿が目に焼き付いていた。やはり島田を動かしたのは、上原であることを、周蔵はあらためて確信したのであった。


閣下カラ シバラク奥デ休ンデヰルヤフニ云ハル。
入リ口ニテ 寺内正毅ト會フ。
間モナク 例ノ泰平組合ノ関係者ガ来タ。閣下ハ シーメンスノヤフナ 失敗ハセヅニ 済マセタガ サレデモ、マダ、何カクスブッテ ヰルノダラフ。
自分ハウイーンに居たノデ(血液分解法探索のため:筆者注)、クハシクハ分カラナイガ、海軍ノモメゴトハ 薩摩殺シノ目的デアラフカラ サノ後ノ今回ノ泰平組合ノコトハ閣下トシテハ ウマクヤッテシマハレタノデアラフ。

周蔵は閣下から、しばらく奥で休んでいくように言われた。しだいに夜も更けてゆく。「閣下は一体何をしなさっとるのか。俺んこつ忘れなされたかも知れん」と思い、そろそろ自発的退去を考えた周蔵が、様子を窺いに入り口まで来ると、驚くべし、こんな時刻になて寺内正毅(1852〜1919)が入って来た。
上原より四才年長の寺内は時の内閣総理大臣であった。驚いた周蔵が、また奥の部屋に戻ると、間もなく泰平組合の資本家たちが、そっと入ってきた。三井、高田、大倉の商社関係者である。
この泰平組合事件の全容を知る人はいないのか、大正の政治社会の恰好の年代記である児島襄『平和の失速』にも記録がない。そればかりか、歴史事典にすら記載がない。吉野作造の「現代政治講座」には一言触れ、また白雲荘主人『張作霖』には「日本の泰平公司と支那政府との間に購入契約された軍器云々」と顔を出すなど、稀に散見される。


松下芳男著『日本陸海軍騒動史』の解説によると、泰平組合は「明治四一年六月、寺内が陸軍大臣のとき、三井、大倉、高田の三商社が共同出資により作った商社で、陸軍の不要兵器の払い下げを受けて、外国とくにシナに売り込んだ。大戦が始まると、砲兵工廠で製造した新品を連合国に売り、膨大な儲けをなした。陸のシーメンス事件といわれ、大正五年の第三七帝国議会で問題になったが、陸軍は軍機に触れるとして答弁を回避した。結局貴族院において『会計処理の仕方を今後注意せよ』という決議がなされただけで、揉み消された」とある。
その翌年になっても、実際には泰平組合事件の火種は燻っていた。本質的にはシーメンスと選ぶ所はないのだが、シーメンス事件を煽った上原勇作は、今度は陸軍参謀総長として、泰平組合事件を防ぐ立場になったのである。どのみち、策なくして収まる話でもなく、泰平組合の産みの親である寺内首相を迎えるとともに、貴族院の五議員を呼んで引き合わせ、調停を画策していたのである。



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