薩摩治郎八

日本一の放蕩息子


薩摩治郎八をご存知でしょうか? 私は「日本一の放蕩息子」と密かに思っているほどの人物です。
朝日クロニクル週間20世紀の”ぜいたくの100年”の中で、薩摩治郎八は次にように紹介されています。
パリ社交界の寵児
薩摩治郎八はパリで「東洋のロックフェラー」とか「東洋の貴公子」と呼ばれ、祖父治兵衛を蓄えた財産を使い果たした。薩摩治兵衛は近江の貧農の出であったが、横浜で木綿織物などを扱い、外国商船とも幅広く取り引きをして、一代で巨富を築き木綿王といわれた。治郎八が生まれたころには、明治富豪26人のひとりに数えられていた。

治郎八は18歳でオックスフォード大学に学ぶという理由でロンドンに行き、毎月日本から1万円(今の約1億円位か?)の仕送りを受けて車と女遊びに熱中した。大学など結局はどうでもよくなり、費用が要ればいくらでも追加の送金があった。当時のサラリーマンの月給は30円ぐらいである。(中略)

やがて2年ほどで治郎八はパリに移り、底が抜けたように金を使って社交界の名士になった。画家の
藤田嗣治らと親しくなり、その紹介でジャン・コクトー、レイモン・ラディゲらと交際し、海老原喜之助岡鹿之助藤原義江らのパトロンとなり、プレーボーイでありながらケタ外れの散財によってスターのように注目された。


1.薩摩治郎八と周蔵氏

周蔵氏は大正6年、血液型判別法の調査のための渡欧から帰ってすぐ若松安太郎から薩摩治郎八を紹介されます。治郎八は、すぐに周蔵氏に興味を抱き周蔵宅を訪ねてきました。海軍に近い治郎八は、周蔵氏が陸軍上層部から密命を受けていることを感知して探りを入れてきたのです。
戦国時代の忍者はアヘンを自白剤に使用していました。巣鴨病院の呉秀三先生から自白が精神病と関係していることを教わった周蔵氏は、精神病・漢方療法とアヘンの組み合わせを密かに研究し、上原参謀総長に具申しようと考えていました。そこへ突然、薩摩少年が訪ねてきたため周蔵氏は慌てて書物を隠し、一緒に新宿に出ることになりました。
7月8日夜
誰かと思ったら先日の薩摩なる少年の来訪に驚く。夜は精神病のことや灸のことなどアヘンとどう組み合わせるかなど本を広げているので慌てる。
新宿に出る。新宿に行きつけの待合があるというのにあきれる。話が中年の遊び疲れた男の話のようであきれる。
結局、その待合に行き馴染みの女を呼んで質問攻めに会う。
向こうで何をしてきたか。女はどうであったか。勉強になることはあったか等。
基本的に、女は買わなかった。大して勉強にはならなかったが目的の万年筆は30本ばかり仕入れたと話した。万年筆屋をやるのかと問われた。そうだと答える。
馬鹿か? と言われた。大の男が万年筆を売るというのかと嘲笑さる。
そうだと答える。
加藤君、親爺殿のおかげでこういう時の気持ちの余裕はできた。余程の成金らしく話しは女に金を使うことと知人の自慢だけだ。
適当で別れる。迷惑だが又くるかも知れない予感す。
(「ニューリーダー」 1996年12月号 原文はカタカナ)


幡ヶ谷へ何度訪ねても周蔵氏が留守で会えなかった薩摩治郎八は、この日は早朝にやって来たため周蔵氏と顔が会いました。「僕は貴方に興味があるのです。吉薗さんの内情を知りたいと思って、ここへ来るのです。」と本人を前にして平然と言う始末です。
10月1日 早朝
薩摩青年現る。自分が何をしているのか興味深く何としても内情を知りたいとの事。困惑す。仕方なく、牧野先生と会わす。その後、救命院へ行く。
佐伯を含め藤根さんに相談に来ていた、数人の病人の記帳を見せ癲狂院の説明す。
するとこの人物は気ちがいには興味があるというのである。まことに困惑す。
非常に良いことをされようとしているから何なら資本を出そうかと言われる。
医者を関係さしてしっかりしたものにするのが良いとのこと。
自分には主たる能力なく、人を制することできない、また、経営能力も無いからこれが丁度のところであり、また、飽きやすいという。
なかなか納得しない。まことに困惑す。佐伯には興味を示してくれず。
(「ニューリーダー」 1997年6月号 原文はカタカナ)



2.周蔵氏のためにパーティーを開く

治郎八は周蔵氏の内情を探るために自邸でパーティーを開こうとします。その席上でわざと共産主義者の徳田球一を紹介します。徳田はしばしば救命院に周蔵氏を訪ね、動向を探るようになります。
周蔵氏は、歩(特別任務)ではあるが、草(諜報活動)ではないため人と交流する必要はないのだが、薩摩の誘いを断り切れなかった憤懣を手記に記しています。
10月2日
またもや早朝、薩摩青年が来訪。救命院の方に先に行った杜のこと。用件は夕方5時過ぎに時間を呉れとの事。
さる集まりに参加したいがそれに誘いたしとの事。断るが譲らないので諦むる。自分は諜報活動の命を受けていないから人と交流を多くする必要はないと思っている。
自分は加藤君からアヘンについては他のアヘンより上質のものを作る事覚ゆ。それを仕事として認めらる。閣下は自分にはそれだけを第一の特務としてくださる。
それを敢えてはずしたくはないから、人との交流は少なくしていたいのであるが、あまりに頑なに断るは疑問の元にもなりかねない。

一応夕刻、薩摩青年指定の神田の屋敷を訪ぬる。6〜70人の集まりでそれが何の目的のものか最後まで分からなかった。丁度、薩摩県人会の集まりのようであった。若松も安太郎、安次郎両人が出席していた。10分もすると、薩摩青年が隣席に訪れ「最近しりあった知人であるが、面白い内容をしている人物だから」と徳田球一を紹介さる。
自分としては好んで紹介されたし人物でもなく、また今さら薩摩青年から紹介を受けなくとも一応、閣下から要注意人物の名簿をもらっていた。紹介さるるは迷惑千万というところだが言うわけにもいかない。
「これが先般から話をしていた人物ですよ。実の所、紹介するにも紹介のしようがないのです。何をしている人物かさっぱり分からない。ただ間違いなくこの春までヨーロッパ行っていたのです。それだけは私が調査したのです。
軍部のさる信用できる人物から聞いています。ところが本人聞くと言わないのです。仕事は何かと言うと万年筆屋であるという。救命院なるものを開いた。実態は気ちがい診療所のようなもの」私が調査した限り、何か別の仕事をしている。これが徳田さんに紹介できる内容です。
(「ニューリーダー」 1997年6月号 原文はカタカナ)

共産党の徳田球一を紹介されるだけでも迷惑千万であるのに、その紹介の仕方がなんとも無礼であった。
こんなガキに、好きなことを言わせておくなんて、薩摩あたりでは考えられない。怒りが沸騰する筈の周蔵氏であるが、自分でも不思議なことに冷静になった。草としての自覚が働き,冷静に集会を見回す心のゆとりが生まれた。
この恐れ知らずの薩摩はどうやら引っ掻き回すことが楽しみなのであろう。
集まっている人物も大物古市など他、貴族院が何人かいた。楽隊などのことは詳しくなく自分には分からないが貧富入り混じったおかしな集まりである。
すべてこの青年が人選して集めたというのであろうか。薩摩家がこの若いあととり息子にいかに期待しているか想像できる。
三井に岩原関係者なども数人居たようだ。自分は場違いであるし20分程で帰る。
(「ニューリーダー」 1997年6月号 原文はカタカナ)



3.渡欧後の治郎八と周蔵氏

周蔵氏は、治郎八の傾向に危険なものを感じていました。周蔵氏には眼が青ければ誰でも近づきたがる治郎八は、西洋崇拝と家柄コンプレックスが強すぎると思われました。フランスに渡った治郎八が自覚のないままに富力を利用され、国益に反する工作に走ることを周蔵氏は懸念しました。
治郎八の奥さんは伯爵の娘である千代子で、藤田嗣治が「ドーリー」と呼んだようにお人形のように魅力的な人でした。彼女は、フランスのファッション雑誌のモデルをつとめるなどフランス社交界の人気者だったようです。

この千代子と佐伯祐三の親密な関係については、落合氏のHPやこのHPの佐伯祐三の最後(1)に詳しく書いてあります。佐伯祐三が、伯爵令嬢のお嬢様である千代子に自分の娘の世話や買い物を頼んでいるのは、何となく笑いを誘ってしまいます。それにしても佐伯祐三の絶筆が千代子の絵だというのは衝撃的でした。そんな事は米子の口からは言えるはずのありません。


パリで現在の金で600億円もの金を使いまくったと言われる治郎八の一代事業は、パリ市南部の大学都市に日本会館を建てて寄贈したことです。落合氏のHPを読むと、これは治郎八の資金を枯渇させるための日本政府による謀略だった事が分かります。これは、大正9年から足かけ9年かけて昭和4年に完工しました。総工費は現在の数十億〜100億と言われています。

ところが、会館建設着手と同時に大戦後の恐慌が始まり薩摩家の財政は悪化していき周蔵氏に資金の援助を要請します。当時、情報収集のために市電の運転手をしていた周蔵氏ですが、上原中将と関連のある久原房之助の久原鉱業の売店の扱う煙草の売上に回してもらい、ペーパーマージンだけで月収300〜400円を得ており、更に阿久津製薬の役員として、月給100円、年2回の役員手当て3,000円を得ていました。また、他にも煙草の小売の利益、純粋アヘンの収穫による収入で年収1万円位はあったと思われます。(だからこそ佐伯祐三のパトロンとなることができた)
周蔵氏は、治郎八に対して大正15年、昭和2年に各5万円、6万円を融通し、対価として治郎八所蔵の絵画を得ました。
6月
薩摩から手紙が来る。内容は簡単なもので初台の父親に会って欲しい。用件がわかる
といったことである。行ってみる。
例の下男は相変わらず大きい顔をして執事のようなことをやっていた。
まず去年の貸金に値する絵だとのことで、フランスから送られたまま封も開けずに渡さる。
内容はゴーガンルノアールとのことにて、父親がいろいろ説明するも分からず。別紙。

(ニューリーダー 2001.11月号 原文カタカナ)

用件の2つ目は文化事業は大分 予定より金額がかかり、追金のことで四苦八苦している
とのこと。「半月ばかり時間を呉れるように」と伝う。「その代わり 5万円を調達しよう」という。
結局、6万ということになる。
条件は調達できれば文句なし、とのこと。面子の問題なのであろうが最早底をついてきた
らしい。勤め人でもなし、女、子供の財閥でもないに、8万に慌てるは底が見えたということで
あろう。

(ニューリーダー 2001.11月号 原文カタカナ)

かなりの収入のあった周蔵氏ですが、さすがにすぐに8万の大金はできないようで妻の巻さん、父の林次郎氏、藤根さん、坂井さんに借りれば何とかなると踏みました。

巻さんにも協力を求め 親爺殿にも求め不足は藤根さん、坂井さんにも求むれば、8万はできようと思うるが、5万と言うが結局不動産の処分を考えて計算したのであろう、6万となる。調べてあるが、不動産はすべて抵当がついておるから売って作るるも知れている。
それにこの不況だ。買い手に叩かれるは実正。

(ニューリーダー 2001.11月号 原文カタカナ)

東京市外 代々幡幡ヶ谷476
    吉薗周蔵様
   昨日例の事完納いたしました
   パリに見事な日本の学生館を建てて見せますから期待していて下さい
   日本の名誉見事にあげてみせます
   大枚をお送りいただきましたのでせめてのおなぐさみに集めた繪をお送りいたします
   有名な画家のものです とくにルノアール コーガンは見事です ゴッホも小品ながら
   立派なものです 三井でおくりました 五月中に届くでしょう 薩摩
    (『天才画家「佐伯祐三」真贋事件の真実』 より)


4.妻千代子の死去

治郎八の妻の千代子は、結核で帰国しますが治郎八は病気を恐れて会おうとはせず、周蔵氏の妻である巻さんが諏訪の別荘で面倒を見たようです。結局、千代子は昭和24年に結核が悪化し別荘で息を引き取りました。

昭和14年、周蔵氏と治郎八は時局をめぐる意見の相違で大喧嘩しますが、周蔵氏に為替を都合してもらい(この辺がボンボンらしい)パリに戻ります。また、昭和26年帰国した治郎八は、厚かましいことに金の工面のために周蔵氏にルノアールの絵2枚の返却を要求します。
千葉縣犢橋村 横戸 明星寺
    吉薗周蔵様
   久しく今日日本の土を踏みました
   予想以上の荒廃に驚いています
   随分探しました 県人会から移転先を問い質しました
   千葉との事なので上原さんの関わりで移ったと 思っております
   貴兄とはパリに立ったあの日 袂を分かち 故に帰国の事
   知らせるべくもなしと 決めていました
   しかし 悲惨な 現実に僕も 多少孝行の真似事なりをいたしたく
   ルノアール2枚ほどいただきたく願い
   ペンをとった次第です
   此混乱の中 武士の情 よろしくお願いあげます
   また 妻が最後まで世話をかけた事 深く御礼申しあげます
    箱根の山中にて 薩摩

    (『天才画家「佐伯祐三」真贋事件の真実』 より)

私が一番面白かったのは、治郎八は佐伯祐三の画才を認めず、
「応援するなら、他にそれに相応しい画家がいくらでもいる」
と主張していたことです。さらに治郎八は、パリで立て替えた祐三関連の費用を細かく計算し
周蔵氏に請求してきたそうです。周蔵氏はその件に関し、
「パトロン気質とは、気に入らない者には一銭も出さないものだ」と娘の明子氏に語ったそうです。

●佐伯祐三と治郎八の関係
吉薗手記によると第二次渡仏の時、治郎八が佐伯の面倒を見ていた事になっていますが、従来の研究では、佐伯と治郎八の接点は無かったことになっています。同じモンパルナス通り162のアトリエに住んでいたにも関わらず全く接触がないというのもおかしな話だと思いますが...。
しかし、落合氏のHPにあるように治郎八の妻千代子との親密な関係を考えると関係者があえて二人の関係を隠したという事が考えられます。今まで伝えられた佐伯に関する情報はほとんど妻の米子からのものでありますから、意図的に隠し他の関係者にも口止めをしたというのが一番考えられると思います。


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