二個師団増師問題

大正政変のはじまり − 上原勇作が表舞台に登場する唯一の事件


●大正政変のはじまり: 上原勇作が唯一歴史の教科書に登場
軍務局長として陸軍省を取り仕切った田中義一少将の課題は、増師の実現であった。前年大韓帝国を併合した日本は、半島の治安維持とロシアの南下に備えるため、駐韓常備軍二個師団の新設を必要としたが、日露戦争後の財政難と厭戦機運から、世論の賛成を得ることができないでいた。
ところが海軍は、戦艦八隻に巡洋艦八隻を揃えるいわゆる八八艦隊を認められた。英国が大型戦艦ドレッドノート号(怒号戦艦)を建造したため、世界が大艦巨砲時代に入ったことが国民に理解されたからであるが、総帥
山本権兵衛の政治力が大きかった。
明治四十四年十月、孫文の辛亥革命が起こると、東アジア情勢が急変した。これに対処して強引に二個師団問題を進めるために、田中義一が担げる神輿は、
上原勇作において他にいなかった。そこで増師案は、軍事課長・宇垣一成大佐(士官学校第一期)が原案を作り、軍務局長・田中義一少将が内外の根回しを行い、陸軍次官・岡市之助中将(士官生徒四期)が陸軍省内をまとめ、上原勇作中将が強力な政治工作を展開する分担となった。

陸軍増師要求の際、海軍と同等の待遇を要求したから、陸海の争いにもなった。大正元年十一月十四日、陸軍大演習のために新橋駅を発たれる大正天皇を見送りに来た西園寺首相は、駅頭で山本権兵衛海相に陸軍対策を尋ねた。海軍が譲歩してくれれば陸軍も遠慮するという期待があったが、山本は首相に上原の解任を勧めた。上原を切っても、後任者を陸軍が出さねば内閣は瓦解する。山本は無責任だと西園寺は感じた。
内閣を取り仕切る内相・原敬は、陸軍大将・桂太郎の斡旋で乗り切ろうとしたが、上原は軟化しない。上原は閣議でも贈師案を説明すらせず、首相に対しても「
賛成なら説明する」と、ほとんど喧嘩腰である。世論はこれでは国防ではなく「閥防」だとして、陸軍のごり押しを非難した。
薩摩の宿将、枢密顧問官・
高島鞆之助中将から勧告された上原は、増師案を撤回してから自ら辞任する決心をしたが、元老・山県元帥の工作を受けて変心する。山県は、増師を呑まして西園寺内閣を存続させる案を出すが、それを首相は断った。閣議で増師案を否決された上原陸相は、十二月二日青山御所に現れ、病気を口実にして単独で大正天皇に辞表を出した。陸軍は後任の陸相を出さず、西園寺内閣は同五日、倒壊を余儀なくされた。
世にいう大正政変の第一幕がここに始まった。公爵陸軍大将・桂太郎が新たに組閣の大命を受け、十二月二十一日第三次桂内閣が成立する。その陸相には桂の腹心で上原のライバル・
木越安綱が就き、上原は将校分限令第四条大二項第四号により自然待命となった。また、軍令局長・田中義一少将も同二十三日付けで解職され、元の歩兵第二旅団長に復帰した。

陸相を辞めた上原は「時事に慨する所あり」として帰郷し、鹿児島の日高尚剛の邸に逗留しながら、都城に隠棲の準備を進めた。陸軍首脳は上原の動静を懸念した。けだし陸軍のためには倒閣をも辞さないという思い切りった行動が、陸軍部内で上原の評価を高めたからである。陸軍次官・岡市之助から上京するように要請された上原は、一顧だにせぬ風情で一月二十四日指宿温泉に向かい、三週間にわたる湯治に入った。
上原陸相の単独辞職提出を軍閥の横暴と見た世論の憤激は、首相に就いていた長州閥の寵児・桂太郎に向けられた。憲政擁護・閥族打破を標榜する在野政党と、これに同調した院外団、言論界、一般民衆の桂太郎首相に対する攻撃はまことに凄まじいものであった。
大正二年二月十日、首都は完全に暴動状態となり、結局、第三次桂内閣は二月十一日を以って、わずか五十三日で倒壊した。これは戦前日本における民衆運動による倒閣の、不完全ながら唯一の例と言われている。




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