甘粕正彦

7)獄中の甘粕と藤田嗣治

●ついにフランスから届いた暗号手紙
初めて千葉刑務所に面会に行った時に甘粕から、「フランスから手紙がきたら持ってらっしゃい」と言われていましたが、ついにフランスから周蔵氏宛に手紙が届きました。
発信者の署名はネクル(NECKER)であるが、変名らしい。名刺が同封されており名刺は手製で「Foujita」と書かれていました。

大正14年3月20日過ぎ、周蔵氏はフランスのネケルなる人物から来た手紙を携えて朝一番で千葉刑務所の甘粕を訪ねます。封筒には右図にあるような一枚の「漫画」が添付してありました。これは誰が見ても判るように日本近代洋画画壇の三巨星として岸田劉生、佐伯祐三と並び称せられている藤田嗣治の自筆戯画です。つまり、この手紙は、在仏の画家藤田嗣治がネケルの名で送ってきた暗号通信でした。




藤田嗣治は明治19年生まれで、周蔵よりは8歳年上である。父の嗣章は陸軍軍医の最高位に在り、大正元年、
陸軍軍医総監(中将相当官)に昇り、3年には予備役に編入した。
嗣治は学業極めて優秀で、佐伯(祐三)の母校北野中学をも凌ぐ日本最高の秀才校と言われた東京高等師範
付属中学を出たが、加えて画才があり、明治43年に美校西洋画科を卒業した。
このように家筋と学業と才能が揃えば、佐伯祐三の場合と同じで、道は自ずから決まる。嗣治は、たぶん上原勇作
によって、大谷光瑞師が佐伯祐三に用意したのと似た道を佐伯より10年ほど早くから進まされていたらしい。
美校卒業の3年後の大正2年、嗣治は画学留学生としてパリに渡り、同8年にはサロン・ドウトンヌに
入選、10年に同審査員となり、エコール・ド・パリの寵児として脚光を浴びた。表ではいわゆる「パリの豚児たち
のリーダーとなり、裏では薩摩治郎八を自家薬籠中で躍らせていた。周蔵は、大正6年、渡欧の帰途にフランスに
寄った時、「上原閣下も欧州に草を張っているのを見た」と手記に記す。周蔵はその時は会わなかったようだが、
藤田もその一人であった。藤田が上原の草になったのは、出国の前であろうが、時期は上原が陸軍大臣の時代
(明治45年)と見るべきではなかろうか。
甘粕正彦の「フランスの同志」とは、藤田嗣治のことであった。この二人は上原を仲介していずれ近づくべき運命
にあったのだが、現実に知り合った時期は、大正8年頃の甘粕のフランス秘密留学の際と見るのが自然である。
( 「ニューリーダー」2001.01月号掲載より)


甘粕は、相変わらず色白で鉄縁の眼鏡は同じで元気そうでした。周蔵氏は、殺人の罪を問われている甘粕に憧れる気持ちを恥ずかしいと思いますが、甘粕に会う事が一種の興奮剤のように感じていました。

三月末日
二十日過ぎ、小菅村に移る前に幡ヶ谷に戻り、朝一番で千葉に訪ぬる。
甘粕さん、元気そうだ。
相変わらず色白の鉄縁の眼鏡は同じであるが、以前の鼻の下の短いひげは剃られているし、
丸坊主であるから若く見える。
「兵学校の学生のようだ」と言うと「そのつもりでいましょう」と言わる。
自分としては恥ずべきことかと思うるが、この人物を訪ぬることが気鋭剤になる。
まるで、佐伯の作る日誌のようだと情けなく思う。
手紙のことは、宿題とされる。言われた通り帰り憲兵隊により見せる。押印さる。
( 「ニューリーダー」2001.01月号掲載より)原文カタカナ

3月某日、3番目の暗号手紙を携えて千葉刑務所を再訪します。前回、甘粕から宿題とされた2番目の手紙の解読結果に100点をもらったので、その場で3番目の手紙を出します。

三月末日
例の宿題は100点を取る。
その場で追って来た次のも開く。
「やってみなさい」と言わるる。30分はかかったと思う。然し、満点を貰う。
これで「この問題は自分でやるように」言わる。
先の人間の事聞きたいが問わず。とにかく、質問はしないことだ。
佐伯からも手紙が来る。大谷さんに届くるものか迷う。兄貴に会えてからにしよう。
佐伯は海の向こうからまで借金の手紙らしい。つくづくと金の忙しい男だと思ゆ。
あれでどのくらい仕事ができるのかと怪訝す。
( 「ニューリーダー」2001.01月号掲載より)原文カタカナ


薩摩治郎八が帰国していると、憲兵隊から周蔵氏に連絡が入りました。自分の暗号文の解読が正しかった事がわかり嬉しくなりました。

末日
薩摩は帰国していると憲兵隊から知らせを受くる。嬉しかった。自分の解読が正しかったことになる。
甘粕さんが満点を下すったのだから誤りはないと思っていたが薩摩の帰国が分かって安心す。
後はこれからの動きだけだ。

( 「ニューリーダー」2001.01月号掲載より)原文カタカナ





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