大谷光瑞

西本願寺のドン

●大谷光瑞師に関して
大谷光瑞氏は、第22代門主で明治9年生まれで明治から昭和にかけて活躍した本願寺教団のドンでした。
当時「本願寺の予算は京都市の予算とほぼ同額で、本願寺御殿の生活は、百万石の大大名の格式であった」と言われていました。また、光瑞氏は3回に渡る中国、シルクロードに大谷探検隊を派遣し、多くの貴重な仏教資料をもたらした事でも有名です。(東京国立博物館にその成果が展示されています)
しかし、放漫財政の責任をとらされて大正3年に門主を引退します。若い頃、ロンドンに留学した経験もあり182cmと当時としては巨体に英国仕立ての洋服を着た様は周蔵氏には、財閥成金に見えたようです。
光瑞氏に関しては、津本陽氏の「大谷光瑞の生涯」が分かりやすくて面白いです。

1)略歴
本願寺のドンとして君臨した大谷光瑞師に関する略暦を引用します。
*大谷光瑞 1876‐1948(明治9‐昭和23)おおたにこうずい
明治後期から大正にかけての浄土真宗本願寺派の第22世宗主。21世光尊の長男として誕生。法名は鏡如。貞明皇后の姉九条籌子と結婚。1903年西域探検のためインドに滞在中に父が死去して継職。継職後も探検を続行させ,3回にわたる発掘調査等を実施した(大谷探検隊)。神戸六甲山上に二楽荘を建て,探検収集品の整理のほか,英才教育の学校,園芸試験場,測候所,印刷所などを設置。宗主としては教団の近代化につとめ,日露戦争には多数の従軍布教使を派遣。1914年負債および疑獄事件のため隠退。中国の孫文政府の最高顧問,第2次大戦中は内閣参議,内閣顧問を歴任した。《大谷光瑞全集》13巻がある。(千葉 乗隆) (C) 1998-2000 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.

2)周蔵氏との関わり
大正6年の夏、周蔵氏は上原閣下から築地本願寺に行き、話を聞いてくるように指示を受けました。上原勇作は、
自分以外の者の仕事は受けたくなければ受けなくてよい。無理はしないように。」と言いましたが、すぐに本願寺を訪ねました。本願寺では大阪の寺の次男坊を美術学校に入学させる手配をしてくれという依頼を受けました。
周蔵氏は、祖母ギンヅルとコネのある山本権兵衛閣下に依頼し、その佐伯祐三なる寺の次男坊を美校に入学させる手はずを整えました。本願寺の前門主大谷光瑞師は、佐伯祐三を諜者として育てるべく、そのバックグラウンドとして一流の画家にさせるために美校への入学させようとして上原閣下を通じて周蔵氏に依頼してきたのです。
8月頭
上原閣下から 一度築地本願寺へ行って話しを聞いて欲しか と言われる。即、訪ぬる。
幸いな事に閣下から言われた。自分以外の者の仕事は受くる気持ちのなかもんは受くる必要は無かよ。
無理はせんように。
本願寺ではおかしなこと頼まる。どうも本願寺の仲に多少、手の者がいるらしい。大阪から坊主の次男が
美術学校へ入るために上京するが美術学校に入るる道を取って欲しいとのこと。
これはどうしたものか。その人物は取りあえず私塾に通うというのである。
難儀な話に巻き込まれたと思い早く片をつけようと考えるが誰が一番良いか迷う。
山本閣下に相談するのが良いかと思い若松氏に話す。何とかなる由。助かる。本願寺には了解の事伝える。
まず一番の目的はその人物の裏を作って欲しいとのこと。
そんなに大物であるかと問うに、なに、これから育てるとのこと。それ以上の内容は問う必要なく、聞きもしなかったが、おそらく、一般の情報集め目的の犬であろう。
自分は犬はできないから用心をする。どうも本願寺は犬を放っているように思う。
特務でも、情報収集や犬はやりたくない。それも自分にはできない。外地ならともかくも。

(ニューリーダー 1997.1月号掲載分より 原文カタカナ)

*大正6年10月末、築地本願寺から連絡があり、前門主大谷光瑞師と会います。

11月2日
築地 料亭に招かれる。大谷さんと会う。
6尺以上はあるであろう。偉丈夫のこの人物は 坊主とは名ばかりであろうか。
洋服姿は 成金財閥 そのものである。
どうせ 佐伯のことであろうが 難問である。「何としても 画家として権力をもたせたい」との由。
一応 美術学校入学は手配してあることを言う。
大谷さんともあろう人が 自分などに美校入学を頼まれなくともと思い、はっきり聞いてみる。

(ニューリーダー 1997.11月号掲載分より 原文カタカナ)

世間に公表されている『大谷光瑞師年譜』によれば、大正3年11月に神戸港から大連に向かい旅順に邸を構えてから以後3年間帰国しなかった事になっています。
光瑞師の大正6年後半の行動は、
●8月より旅順大谷邸に滞在
●10月天津に渡航し、北京・南京・上海を経て、11月13日門司を経由台湾に渡る。
であり、これが正しいのであれば築地に居るはずもなく、中国にいたという伝記の記載の方が間違っていることになります。実際には海外放浪を看板にして世上を韜晦しながら、しばしば帰国して、西本願寺内に密かに院政を敷き始めていたようです。

意外にも「自分は 陸に強いが 海軍には巾がきかない」とのこと。
「君は権兵衛に道を持っていると 聞いている。美術学校は海なんだよ。」の由。
大谷さんは、もう本願寺の住職は辞めている。大谷光瑞光寿会なること されている。

(ニューリーダー 1997.11月号掲載分より 原文カタカナ)

陸軍に対してこれまで協力してきたため融通の効いた光瑞師ですが、その分海軍に対しては疎遠となっていました。そのため、海軍の黒田清輝の影響下にある美術学校にはコネがなく、海軍の山本権兵衛にコネのある周蔵氏に対して上原閣下を通じて依頼がきたわけです。

国士的傾向の光瑞師は明治35年、有名な大谷探検隊を派遣して西域探検に乗り出したが、そこには軍事偵察的な意図が見える。明治37年、日露の戦雲が急を告げるや光瑞門主も本山に臨時部を開設し、その後全国に出張所や支部を置き、慰問と布教に努めた。

大谷光瑞門主が日露戦争のために支出した金額は、実に1000万円(今日の1000億円)の巨額に上ると、周蔵氏は戦後の手記に記している。その大部分は、ロシアの後方を撹乱するため、欧州でユダヤ人スパイを操縦していた明石元二郎の工作資金となった。
因みに桐蔭高校の先輩である作家津本陽は、明石がレーニンの買収に100万円を費やした話を西本願寺から聞いたと教えてくれたことがある。

明治40年、光瑞夫妻は紫禁城において西太后光緒皇帝に拝謁し、また皇居では明治天皇から日露戦争中の活動を嘉賞する優渥な勅語を賜った。当然ながら侯爵への昇爵が諮られたが、東本願寺や本願寺木辺派、花園派などの真宗他派もそれなりに御国に協力したものを差別する訳にもいかないという理由で、沙汰止みとなった。光瑞師の日露戦役に対する尽力は他派とは比較にならないものだったが、言挙げしない深沈な性格のため、光瑞師と明石(元次郎)以外には、誰もその全貌を知らなかったということであろう。
(ニューリーダー 1997.11月号掲載分より )


大正8年2月6日、周蔵氏は大谷光瑞師に招かれ、光寿会に入って欲しいとたのまれます。
その件は断りましたが、「端節」という名前を付けてもらいました。

大谷さんから、「光寿会に参加して欲しい」との要請。ことわる。
「自分は 坊主にならなりたいと思っている。宿無しの乞食坊主が自分にはふさわしいと思っている」と答ゆ。
「それでは 名前をつけてやろう」とのこと。
「瑞節というのはどうか」とのこと。
「それは余りにも恐れ多い。せっかく戴いていつも気兼ねをするのではつらいから字が似ているから瑞ではなく端にしていただきたい」
「端節か それもよかろう」
「確かに季節の端というのは 向いている」といわる。
いつか、乞食坊主になろうと本心思う。とにかく こういう人物とは 関わりたくない。
(ニューリーダー 1998.03月号掲載分より 原文カタカナ)

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