シベリア金塊(2)


*周蔵氏は舌癌の痛みがひどいため、奥歯を4本抜いて出発に備えました。

●「小山健一」としていよいよ欧州へ
タバコやの店舗拡張のため欧州視察ということで通る。小山健一氏当人に合わせ、29年生まれとなる。
ヒゲを落としたら結構若くなった由。安太郎氏とは1月10日迄に会える予定。

(「ニューリーダー」 2002年3月号 原文はカタカナ)

当時、海外渡航には個別許可が必要で、外務省が東京府と協議の上で旅券を下付していた。周蔵の渡航名義は「小山健一」で、現在も東京都港区飯倉外務相資料館には
外国旅券下付協議ニ関スル件」として、外務省から東京府知事に宛てた「昭和2年12月22日付 ○地第4528號ヲ以テ 小山建一ニ對シ 欧州諸国渡航旅券を下付方ノ義ニ関シ 御協議ノ趣 諒承
の一件書類が保管されている。(ただし建一と誤記)当該文書によれば、小山は長崎県人で、明治29年1月13日生まれ、学歴は「関西大学半途退学」とあり、職業及び経歴は「支那ニ店舗ヲ有シ煙草輸出入商」とされている。(小山氏の子孫がおられるなら、是非ご連絡をいただきたい)小山より2歳上だが、外見著しく老けて見える周蔵は、髭を落として少しでも年齢相応に見せようとした。
旅券発行は12月24日付けである。汽船で5日ほどかけて大連に渡り、そこから満鉄で奉天を通過してハルビンに行く。さらにシベリア鉄道に乗り換えて欧州に向かうが、パリまでは鉄路で10数日かかる。『周蔵手記』10月3日末条には、「連絡は済んでいる。少なくとも1月下旬にパリ到着予定とす。ネクル氏の指示に従って、スイスに入ればよい」とあるから、奉天出発の予定日は1月中旬となる。つまり周蔵は、貴志彌次郎のいる奉天に数日滞在する日程を組んでいた。若松と1月10日に以前に会うその予定地はまず奉天であろう。

(落合氏解説)

スイスの誰であるかは、自分が持った名前、住所である。ネケルは知らない。万一、下心があっても前もってはできない。ネケルは自分が行ってはじめてスイスと知り、動くわけである。
相手が今もって、それを持っていさえすれば、ネケルがそれを手にするわけわないから、中が何であるか知ることはないはず。後は運だ。

(「ニューリーダー」 2002年3月号 原文はカタカナ)

スイスにいる相手のことは、自分が持つ住所・氏名で初めてわかるもので、ネケルは知らない。万一ネケルに異心があっても、前もって謀りごとはできない。ネケルは、自分が行って初めて目的地をスイスと知り、動くという段取りである。相手が今もって目的物品を確保しているなら、ネケルは直接手にするわけではないから、中身が何であるか知ることはない筈である。後は運まかせだ。
周蔵は、10月末条の時点では、欧州側の責任者をネケル氏(藤田嗣治)と錯覚していたが、今回ネケルは自分より下位と知ったわけである。後日の条でわかるように、密命の総括者は甘粕であった。つまり、スイスの相手に連絡した人物とは、実は甘粕で、彼こそ密命の全体を握っていた。藤田嗣治は上原元帥が古くから欧州に張っていた「草」で、甘粕の要請で密命に参加したものの、任務上の地位は周蔵より下位であった。

(落合氏解説)

パリのネケル氏宅に、1月28日に着く。それまでの道中は、貴志さんに頼み事をする。自分は、シベリア鉄道に乗り込んだ。
後は、前後してかもしれないが、パリで安太郎氏と会えるであろうと思っていると、安太郎氏が訪ねてくれた。同じ列車に乗っておられたのだ。貴志さんの手配であろうか。これには驚く。

(「ニューリーダー」 2002年3月号 原文はカタカナ)

パリに1月28日に着いたのなら、奉天は予定通り1月中旬に発った筈である。奉天に数日滞在して貴志中将に会い、何らかの作業をした周蔵氏は、シベリア鉄道に乗った。
当初計画は、安太郎氏と1月10日以前に(奉天)で合流する手はずであったが、それが変更になり、周蔵一人シベリア鉄道に乗りこんだわけである。

(落合氏解説)



「何ヨリ驚クハ ネケル氏ノ容姿」

然し、安太郎氏とはまったく別行動を取り、自分はネケル宅を訪ぬる。
この時、何より驚くは、ネケル氏の容姿であった。女の幼子のような、目のふちまで前髪を伸ばし、とかしつけて切っている。
着ているものも女子のようだ。自分に会いたかったと大変喜ばる。
早速、数人の人に会わせるが、一人の人物も信用してはならぬ、と言う。
自分は酒は呑めないが、集まりなど、たとえ薩摩一人と会うにしても、酒を呑んだふりをし、勿論酔ったふりをしている、とのこと。
又、絵など描く時間もないと思わせるために、昼間は、ほとんど遊んでいる、とのこと。家からの僅かな仕送りは寄ってくる留学生たちに全部喰わせてしまうとのこと。
思ったとおりこの人物は、仲々のものであった。

(「ニューリーダー」 2002年3月号 原文はカタカナ)

藤田嗣治の自宅は、モンスリ公園の角のフランス式の邸で、佐伯がそのスケッチを今に残している。藤田の奇抜な女装は、薩摩治郎八と画学生仲間や世間の目を晦ますためのものであった。その他、酒に耽ったり後輩たちに奢ったり、昼間からぶらぶらする奇行も、すべて同じ目的のためであった。それに気づかず、今なお、藤田に目を晦ませられている美術評論家の類が多い。これはひとえに、特段に秀でている画才に目を奪われてしまっているからで、一流の諜者が必ず一芸の士でなければならない所以である。

(落合氏解説)

その夜のうちにネケル氏は薩摩に舵をとらせて、友人たちを紹介してくれる。
ネケル氏はスイスの方を、おさえたりするを急いでいるので出席せず、薩摩によって、コクトヲなどと夕食をす。
前もって、コクトヲのことはネケル氏から説明を聞かされる。然し、誰一人信じてはならない、とのことである。薩摩出身の画家がおり、中々ただ者ではないが、会わない方がよいだろうとのこと。自分もそう思う。自分もそう思うと答ゆ。薩摩となれば、海であろうから。

(「ニューリーダー」 2002年6月号 原文はカタカナ)

スイスの相手先の住所・氏名は周蔵が握っていたのか、藤田がすでに知っていたのかが未詳。ジャン・コクトーは1889年生まれ、周蔵より5歳年長のフランス人芸術家で、詩人・映画監督として今日もその名が忘れられることはない。薩摩出身の画家の名前は間もなく明らかになる。

(落合氏解説)

薩摩はバカだと断言された。金を使える間は利用してやろうとばかりに舞台を作って躍らせるだけで、馬鹿を見抜かれているから大丈夫だと言わる。その主役が、コクトヲだと言うのだ。
コクトヲなる人物は宗教の道の主頭(しゅとうと言わる)であり、ただ者ではないとのこと。なれど薩摩にはただの呑んだくれの詩人づらをして見せている。自分は信用したいと思うが、思うだけだ。その辺は、自分で計ってくれとのこと。

(「ニューリーダー」 2002年6月号 原文はカタカナ)

薩摩を馬鹿だと藤田が断言したのは、いささか見くびり過ぎであった。
コクトーはブラック・マリア教の総長と囁かれるが、これはマグダラのマリアを崇拝するカトリック密教らしい。そのコクトーが、国際秘密勢力の走狗となった薩摩を躍らせる役割を担っていた。飲んだくれの詩人と見せながら、芸術崇拝癖の強い薩摩を踊らせていたのである。藤田がコクトーをいくら信用しても、そこに金銭的な関係はないが、周蔵は実務家として金銭に関わる立場だから、自身でコクトーを判断せねばならない。

(落合氏解説)

意外にも、薩摩が夜が早いのに驚いた。
妻君にも初めて出会うが、地の顔が分からないようだ。薩摩は女郎馴れしているから、化粧のない顔を見ることができないのであろうか。
妻君を置いて、薩摩はパーティーに招かれていると、いなくなり、コクトヲの絵の講義を妻君の通訳にて受くる。
3日ばかり、パリーというリッツなるホテルに薩摩が泊めてくれる。顔だと言うことで、大いに薩摩の幅のきくところを見せてもらった。
翌日には、コクトヲ氏が講義をした画家の絵をスイスまで見せにつれていこうと言いだす。2日後にパリを発つ。
それでも、ネケル氏はコクトヲのことを信用したいが、恐ろしいと言われる。

(「ニューリーダー」 2002年6月号 原文はカタカナ)

千代子の厚化粧は有名で、人形そっくりというのでドーリーと渾名された。
周蔵はコクトーから千代子の通訳で絵画の講義を受けたが、画家ポール・クレイの名をこの時初めて知ったと伝わる。
コクトーの講義は、周蔵がスイス行きの名目とした名画購入を裏付けるためである。コクトーは周蔵に絵の講義をし、スイスまで案内することによって、藤田嗣治に協力した。リッツに3泊した周蔵が、本来の任務のためにスイスに向かったのは、1月31日のことらしい。

(落合氏解説)

スイスの住所は、ケルンの街はずれの小さな教会で、神父が一人居るだけだった。
はじめに、ネケル氏が入って行き、自分を招き入れてくれた。
すると、この場所には1/3しかなく、後はアルザスという所と、別の所にあるとのことである。安太郎氏はこの地に先に来ていた。
教会の道沿いに立っているのに気がついた。それも、甘粕とである。
自分が、安太郎氏と会うため、外に出て、そのことを言う。
甘粕さん、中に入り、安太郎氏が残り、後は一人で行動した。

(「ニューリーダー」 2002年6月号 原文はカタカナ)

ケルンはベルンの書き誤りであろう。要するに目的物は3分され、ベルンの教会とアルザスと、もう一ヶ所にあることを神父が説明した。通訳はネケル(藤田嗣治)である。教会に向かう途中、周蔵は、若松安太郎(堺誠太郎)が甘粕正彦と並んで道端に立っているのを見つけた。密命チームの全員がこの教会に集合したわけである。藤田を教会の中に残し、周蔵が外に出て、外にいる二人に物品分散の説明をした。すると甘粕が安太郎を残して中に入り、藤田と何か話しをした。
チーム内の役割は、日本側は周蔵が頭で安太郎は補助、フランス側は甘粕が頭で藤田が補助、そして甘粕がチーム全体の隊長と推察される。

(落合氏解説)

結局、安太郎氏は一人パリに戻り、ネケル氏も一人で戻る。
自分はコクトヲ氏にスイスのクレーなる画家の絵を持ち主の所に見せて貰いに行く建前であるから、それを形なりと実行す。
パリに戻った時は、ネケル氏も同時くらいに戻ったらしい。
又、コクトヲ氏の講義されたる別の画家の絵を見ることとなり、郊外に向かうこととなる。アルザスから、甘粕さん引き上げが済んでいた。ネケル氏とスイスの帰りにまわられたのである。

(「ニューリーダー」 2002年6月号 原文はカタカナ)

密命メンバー4人はベルンで散会し、別行動をした。甘粕と藤田はアルザスに向かい、安太郎氏はベルンの物品を運んで一人でパリに戻った。周蔵は、アリバイ作りのために、スイスのコレクターの所に行く。コクトーはパリから駆けつけて落ち合い、同行したのであろう。周蔵がパリに到着した時、、藤田も同じ頃に戻っていた。コクトーの講義のもう一人の画家(ルドン)の絵を見るために、周蔵はパリ郊外に向かう。戻ってくると、甘粕もアルザスから物品の引き揚げを済ませていた。
角田房子の伝記『甘粕大尉』によれば、甘粕はフランス語の鍛錬と称し、陸大同期の官費留学生澄田徠四郎に頼んでオルレアンに移り、12月ごろにルアンに移ったとある。しかし、これは事実ではなく、2月初頭にルアンにいた筈の甘粕は、実際は上原元帥の密命遂行のため、若松や藤田とともに、スイスからアルザスに回っていたのであった。

(落合氏解説)

甘粕さん共々と安太郎氏の手伝いもおられた。○○○は重く、怪しまれる可能性もあると思い、ネケル氏に人を一人調達たのむかと、何度も話し合う。
結局、3人でやろうとなる。
恐ろしいと思うくらい順調で、甘粕さん曰く。閣下の子供だと思える女だったとのこと。
「母親は昨年なくなりましたと上原に伝えてほしい」と言わるとのこと。女は混血だったと言わる。年齢は少なくとも35ぐらいではないか、とのことである。

(「ニューリーダー」 2002年11月号 原文はカタカナ)

安太郎氏のホテルには、甘粕のほか、安太郎氏の手伝いがいた。例の頑丈なロシア人である。スイスからの引き揚げには藤田と甘粕が協力してくれたが、日本への運搬は周蔵と安太郎と助手のロシア人の3人しかいない。もう一人雇うかどうかで議論したが、結局は3人でやろうということになった。
甘粕正彦藤田嗣治と一緒にアルザスに行き、別々にパリに戻ってきた。藤田の役割は運搬の補助で、二人で荷物を分担したのである。アルザスの相手先とはポンピドー家で、そこは彭波得と名乗って先年来日していたメソジスト派牧師の実家である。そこには、甘粕が上原の娘と推察した混血女性がいた。その年齢を仮に35歳とすると、1893(明治26)年の生まれで、上原37歳の時の子供となる。昨年亡くなった母親とは、実はポンピドー牧師の妹であることが、後年の別紙記載でわかる。

(落合氏解説)


パリには正味、丁度2週間位のものか。最後は、小さな時計工場の職人の床下から取り出し、自分が持つ。両の手がしびれるように重いが、○○○○○から何とかやり抜いた。
ハバロフスにて用意していた車に乗せる。ニコライフスクまで着いたとき、正に夢だったように思う。後は、安太郎氏の船である。
蛙(鮭か?)や蟹と一緒に大連まで船旅である。閣下の言わるるとおり、○○○を○○○にし、日本へ自分が運ぶ。残りは大連にて、貴志さんと町野氏に渡す。

(「ニューリーダー」 2002年11月号 原文はカタカナ)

いずれにせよ、周蔵のパリ出発は2月中旬で、それからシベリア鉄道でハバロフスクに着いたのは3月上旬、自動車でニコライエフスク港に回り、漁船で大連に着いた時はすでに4月に入っていたであろう。周蔵がパリから留守宅の巻(本名ツヨミ)に宛てて出した葉書が現存するが、日付は不明で、「佐伯君が感動した光景を見ながら、シベリア鉄道で帰る。東京着は4月末頃」とある。結局、大連から東京までの旅程のほうが、パリから大連より時間が掛かったのである。
上原勇作元帥の密命は、回収物品の一部を小分けにして東京に持ち帰り、残りはすべて貴志彌次郎町野武馬に渡せというものであった。町野武馬は予備陸軍大佐で、第二次奉直戦争に関与したとして予備役に編入された後、郷里会津で衆議院議員になったが、すぐに満州に戻り、事実上の奉天王張作霖の顧問として知られていた。軍人出身だが、本質は張作霖に日本要人との交渉術を指導する政治顧問であった。
貴志彌次郎も予備役編入後再び奉天に渡り、張作霖の顧問になったが、こちらは裏方であったから、事績そのものが史家にまったく知られていない。そもそも上原元帥が例の物品を回収したのはそっくり張作霖に与えるためで、最終的にこの二人を通じて張作霖に渡される手筈であった。

(落合氏解説)


自分の役目は後、閣下の自宅に○○○を運んだだけで終わる。
閣下は、その中から○○を下さると言わる。自分は、それは受け取れないとことわった。はじめに3萬円を貰ったのである。それが自分たちの分である。安太郎氏5千円、ネケル氏5千円、甘粕さんに1萬5千円、自分も遠慮なく5千円もらったと言う。よいからと言われて受け取る。

(「ニューリーダー」 2002年11月号 原文はカタカナ)

周蔵は上原元帥の指示に従い、物品のごく一部を自宅に届けた。私(落合)の試算では、物品全体では邦貨55万円程度の価値を有したようだ。現在の貨幣価値にして20億円程度だろうか。上原が手元に運ばせたのはそのうち現価1,500万円相当分にすぎない。その中からさらに一部を記念品として周蔵にくれようとした。経費込み報酬として3万円を閣下から受け取っていた周蔵は謝絶したが最終的に受け取る。なお、報酬配分は甘粕に1万5,000円、藤田嗣治と若松安太郎と周蔵が各5,000円づつで、これを見ても甘粕がチームリーダーだったことがわかる。

(落合氏解説)



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