石光真清

軍事探偵の波乱万丈の生涯


●周蔵の護送と教育係として渡欧

*大正5年5月8日、吉薗周蔵氏は、ラントシュタイナーの血液型判別法の技術を入手するために渡欧します。その際、武田内蔵丞の名義で旅券が下付されましたが、香港でもたついたらしく旅券を取り直しました。シドニーで石光真清(久原鉱業遠藤名義)と待ち合わせを行いました。ウィーンにはまずシドニーに行きそこから英国に渡り、英国からウィーンに行きました。スパイとして敵国に入る周蔵氏にとっては、英国領を通過することに意義があったようです。英国もドイツ・オーストリアから見れば敵国であるが国力があるので英国領から入る者には取り扱いが違ったと思われます。シドニーの出発からウィーンでの活動までは、「陸軍特務吉薗周蔵の手記」 ニューリーダー1996.11,12月号に詳しく書かれています。

大正5年 10月26(木)
 シドニーデグヅグヅシテ時間ヲ食フ。ヤットノコトデ ウィーンニ着ク。
久原鑛業ノ技師Mr.Enduoガ同行シテクレテヰルノデ苦労ハナシ。
Mr.Enduo(Mr.Ishimithu)ハ マフベテランデアル。日露ノトキカラノ熟練者ノ由


(「ニューリーダー」 1996年11月号 )


遠藤とは借名で、本名を石光真清という呼び陸軍少佐であった。明治元年8月31日熊本細川藩士の家に生まれ、陸軍幼年学校を経て、明治22年7月陸軍士官学校を出た。日清戦役では台湾へ出征したが、日露の戦雲を感じてロシア研究を志したのは、当時ロシア研究を志す陸軍将校は、田中義一の他には数人しかいなかったからである。
私費留学を許された石光真清は、明治32年陸軍を休職し、単身ウラジオストックに渡った。「東方(オストーク)を征服せよ」という勅命を冠せられ、ロシアの侵略思想を体現した都市である。
石光大尉は
菊池正三の仮名を名乗り、アムール江沿いの都市ブラゴベヒチェンスクを拠点とするが、そこでロシア軍による清国人住民の大虐殺に遭遇した。明治33年義和団の暴動の関連して、この地在住の清国勢力の蜂起を恐れたロシア軍が、無辜の清国人3,000名を、子供に至るまで支那人町に押し込んで、一人残らず惨殺したのである。
真清は、ロシア情勢を探索する行動を怪しまれないために、”正業”として
菊池写真館を開く。開業の費用は参謀本部が出したが、軍部と関係あるという”嫌疑”を避けるため直接連絡の途を絶つ、と参謀本部から通知してきた。明治34年6月6日であった。
志士的な性格の石光は、軍人の枠を超えて御国に奉公しようと考え、町田少佐や武藤大尉らの反対を押し切り、自ら予備役編入を願い出て陸軍を去り、軍属の「草」になった。
明治35年、町田少佐と武藤大尉がペテルグラード駐在武官となり、入れ替えに帰国する前任者の田中義一中佐がハルピンの菊池写真館に来て泊った。その豪放な外観がハルピン在住の浪人志士の人気を博し、連夜痛飲して放言したが、内面は思慮緻密な人物であった。「
私は田中義一氏とこの日以来、特別の交誼を結んだが、終生世話になることの方が多かった」と『石光真清の手記』にある。

(落合氏解説)


菊池写真館は、大連にも支店を開設した。「明治36年7月の末、大連に滞在していると、信濃丸で陸軍少将上原勇作(後の元帥)が到着した知らせがあった。船に訪ねて情勢を報告すると、少将は私の境遇や将来の方針、経済状態まで詳しく質問して、労を謝した」とある。(『石光真清の手記』)上原工兵監は、ロシアの輸送力の調査と鉄道爆破計画のため、状況視察に来ていたもののようだった。その後、石光は日露戦争で召集されて陸軍少佐として軍役に就くが、終戦とともに予備役に戻り、軍属の草として活動した。その内容を、真清の嗣子真人が記した膨大な『石光真清の手記』のなかに、田中義一の名前は何十回となく出てくるが、上原勇作の名は私の知る限り、ここ一か所しかない。
後年、石光の弟の陸軍中将・
石光真臣が立花小一郎大将とともに、陸軍機密費を流用した陸軍大将・田中義一の政治関与を暴くのは上原勇作の意を受けたものである。その石光の兄が田中義一との交だけを強調し、上原勇作に全く触れないのは、それなりの理由があった。現実の石光真清は手記の内容とは違い、弟真臣とともに上原の股肱であった。読者はそのことを、後のシベリア砂金問題で知るだろう。また、町田と武藤は、石光真清の弟真臣とともに後日、堂々たる将軍となって上原閥の中核を形成するが、「石光真清の手記」はそのあたりの事情を完全に隠蔽している。この結束と機密保持の強さにこそ、上原閥の上原閥たる所以があった。

(落合氏解説)


オカゲデ贅沢ナタビヲサシテ貰ッテヰル。彼ハ写真ヲ撮ッタリ 港ニ入レバドコカ ヘ行ッタリ忙シヰガ 自分ハ船デ待ツダケデアル。相手カラスレバ 訓練中ナノデアラフ。マットモ役割ガ違フトヰフコトダラフ。トニカク現地マデ案内シテモラヘルトハアリガタヒ。
サテ現地デハ鬼ガデルカ蛇ガデルカ。サフ思フヤフニシテヰタ。

ホンコン、シンガポール、シダニート海ノ上ヲ右往左往シテウィーンニ辿リツヒタトキハ自分デモ驚ク。然シ日本軍人ノクモノ巣ヲハリツメタヤフニ世界中ニ草ヤ犬ヲ張ラセテヰルニハマット驚ヒタ

(「ニューリーダー」 1996年11月号 )


さすがに菊池写真館の主人だけあって、石光は写真撮影に長けていた。船が英国の海外領土に錨をおろす度に、どこかへ行って、密かに写真撮影をしているようであった。
ロシア語学習を自ら志した石光は、生来語学にすぐれていたのであろう、陸士ではドイツ語を学んでいたから、外国語の会話に自信のない周蔵には頼もしかった。
もう一つ心強いのは、
明石元二郎中将の支援であった。明石は参謀次長の座を田中義一に譲り、このときは第六師団長であった。日露戦争に際し、参謀本部附き欧州駐在として、欧州各地でロシアの後方を撹乱した手腕は、世界的に知られていた。明石は周蔵に何通かの封書を与え、「宛名の人に会ったとき、それを渡せ」としか、言わなかった。宛先は外人で、封書の外側に奇妙な絵を描いてあった。

(落合氏解説)


アカシト云エバ ダコニデモ入レルヤフナ氣ガシタ。考ヘテミレバ手ノ者トダケ會ッテヰタ訳ダカラ苦勞ガナカッタノダト話ス。

アカシサンハ レーニンヲ賈収シテ ロシア革命ニ発展サセタトヰフ 大人物ダサフダガサレヲスルニ當ッテ ウィーンカラドイツニ草ヲ張リ成功サセタト説明ヲ受ケタト教フル。

自分ガ向カフヘ行ッテ アカシサンカラ貰ッタ手紙ヲ 一枚ヅツ渡シタダケデスベテガ展開シテヰッタ。アノ時 日本ハアルイハ世界ニ名ダタル國ニナルカモ知レント思ッタ。

相手ハネ手紙ヲ開カナイ。封筒ノ裏ニ変ナ絵ミタヒナモンガ書ヒテアルダケダッタ。ハジメダケ石光サンガツレテヰッテクレテ後ハ外人ガ次カラ次ヘト交替シテクレタ。
ツクヅクト日本陸軍ノ裏ノ力ヲ見タ。

(「ニューリーダー」 1996年11月号)


石光は最初の名宛の外人の所までは連れて行ってくれた。周蔵が宛名の人に手紙を渡すと、相手は見るだけで、開封はしない。封筒の絵を眺めてすぐうなずき、その人が次の名宛人の所へ連れて行ってくれた。何度かそうするうち、周蔵はウィーンに着いた。
外地の諜報、周蔵の護衛及び訓練。この三種類の任務を石光に与えたのは、参謀総長上原大将であった。参謀次長・
田中義一中将はこの件に全く関わっていない。後に見るように『石光真清の手記』には、このときの渡欧をすっぱり省いている。遺族も祖父が渡欧したとは、まったく聞いたことがないという。

(落合氏解説)


大正に入って、三等郵便局の旦那として平和に暮らしていた(と手記には記す)真清に対し、参謀本部支那課長であった弟の石光真臣大佐が再起を促してきた。真臣の義兄・橋本信次郎が一万円を出資して、満蒙貿易公司を設立し、それに関東都督府が二万円を追加し、以後毎年5,000円ずつ補助する。本社は東京におき、橋本を社長とし、錦州に商品陳列館を開設して、真清を専務取締役としてその経営責任者とする案であった。
錦州は、山海関と奉天の中間にあり、昔からの遼西の首府で、蒙古の各市場の門戸となる重要な地点であった。主な物資は毛皮と薬草である。ここには英国が利権を扶植していたが、日本人は売薬業者が十数名いるだけで、貧しい行商をしており、日頃中国官憲の圧迫に泣いていた。
対日感情の悪い錦州では、誰も日本人に家を貸してくれない。その事情を呑み込んだ石光は、粘り強く交渉し、目抜き通りの馬具屋を30年契約で借りることができた。すぐに改築にかかり、錦州城内では目につく洋風建築の建物ができ、開店披露したのは大正5年7月21日であったが、「調査や取引契約などに日時を要して実際に業務を開始したのは、それから3ヶ月後の10月であった」とある。(『石光真清の手記』傍線は落合氏による)

(落合氏解説)


思うに周蔵が「シドニーでグヅグヅ」せざるを得なかったのは、錦州商品陳列所の開店に祭し、「調査や取引契約などに日時を要して」いた石光の到着を、ひたすら待っていたからである。錦州計画には田中参謀次長が関与していたが、血液型探索の件は上原参謀総長が独断で進めていた計画だった。上原と田中の板挟みとなった石光は、手順上、錦州の商店の開店の方を優先せざるを得なかったのであろう。

(落合氏解説)


(大正六年)四月六日 Mr.Enduoより 電話ヲ受ケ、バイヲリンノ勉強ニ来テヰルトヰフ夫人 Miss Chieko ト フランスニ移ル。
呉先生ノ紹介状ガアルコトデ助カル。
戦時中ノタメ 何事ニツケテモ真剣デアリ、誤解ヲ受ケヤスヒモノト考フル。
故ニ フランスノ精神病ノ状況ナド 視察スルモ難儀ト思フルノデ、帰国ヲ決ル。帰リモ 英国カラシドニーニ出ル。来ル時ト同ジニシタ。シドニー、シンガポール、日本トナラ簡単ナノデアル。バイヲリンノ勉強ノ為ニ欧州ニ渡ッタトヰフ婦人モ希望サレタノデ伴フ。
詮索スルモ馬鹿ラシヒガ ドコカ訳ノ分ラヌ不思議ナ様子ヲシタ婦人デアル。バイヲリンヲ学ブニ バイヲリンヲ持ッテヰナヒノデモアル

(「ニューリーダー」 1996年12月号 )


六月分
丸一年カカッテ 血液ニ関スルコトヲ ヤリヲヘタ。行キニ比ベテ 帰リハ難行シタ。
Mr.Enduoモ 苦労シタヤフダ。
アルヰハ トヰフ時ガ 何度カアッタ。ヤハリ戦争相手ノ国ヘ 行ッテヰタトヰフコトダラフ。後ニナレバマズハ冷汗ダッタト ヲ互ヒネギラフ 余裕ハデキテヰタガ。ヤクゾ帰レタト思フ。

(「ニューリーダー」 1996年12月号 )


石光は昨年周蔵を欧州に届けたのち、一旦は錦州に戻ったが、三月には再び錦州を発って周蔵を迎えにきた。
石光真清は文藻に富み、自らの活動を綴った膨大な手記を残した。遺児の
石光真人がこれを年代順に整理し、『城下の人』、『曠野の花』、『望郷の歌』、『誰のために』の四著に分けた。前三者が明治時代の記録で、大正以後の分は『誰のために』一冊に纏められているが、この四部作は戦争文学の一種として、思想の左右を問わず愛読者が多い。遺族によると、この他にもまだ膨大な諜報記録が残されていたが、自分で焼却したものも多い、ということである。
周蔵がここで触れた石光真清の活動は、石光手記では『誰のために』の冒頭の時期にあたるが、まったく記載されていない。この時期のことはただ「(錦州陳列館の)商売は以外にも順調に滑り出した・・・翌年の大正六年四月になると、十数名に過ぎなかった在留邦人が急増して二百余名になった。草分けの私が日本人会の会長に推薦されたのは当然の成行きであった」とあるだけである。(中略)
石光の手記は、そんなことばかり記したかと思えば、いきなり「明けて大正六年、その年も暮れようとする十二月九日、家庭に帰って正月を迎えようと思っていた頃、関東都督府陸軍部参謀長高山公通少将(後に中将)から電報が来た・・・十月十二日の朝、旅順に着いて参謀長高山公通少将を訪ねると、同少将はしきりに私の労を犒いながら、ロシア革命が軍事的にも政治的にも重大な影響を持つ世界的な大事件であることを説き、参謀本部次長田中義一中将(後の陸軍大将、総理大臣)が特に私を指名して至急ロシアに派遣し調査に当たらしめるよう命令があったので、承諾して貰いたいと言った」とし、これだけ詳細な手記なのに、大正六年は、十二月以前の具体的な記載が欠落している。

(落合氏解説)


十一月十七日「急用にて来たので すぐ戻るのであるが」と石光さんの訪問を受くる。上原さんから住所を聞れた為。あの折の世話になった感謝を述べる。
今日は満州、その翌日には東京というふうに万里を一夜に走るような人物と親父殿に云う。
「本物の肥後もっこすである」と親父殿関心す。
「製薬会社はやられた方が良い。機会は逃さないことです。相手を信用さえできるなら、そうされたら良い」と云わる。阿久津さんに任すこととする。

(「ニューリーダー」 1997年12月号 原文はカタカナ)


(周蔵の父である)林次郎は賛成したが、周蔵は迷った。会社経営には自信が持てないからである。そんなとき、石光真清が周蔵を訪ねて来た。
「急用で来たんじゃ。すぐに錦州に戻らねばならん」
上原閣下から幡ヶ谷の住所を聞いて、わざわざ訪ねて来てくれたのだ。
「石光ドンは 一夜に万里を走るがごつ 御方じゃ」と父に紹介すると、林次郎は「なるほど こん人が本物の肥後モッコスじゃ」と誉めた。周蔵がこれも辻占と思い、阿久津さんとの製薬会社の件を石光に相談すると、「相手が信用できるのなら、そんな機会は逃さない方がいい」と教えてくれた。
前にも述べたが、『石光真清の手記』は大正5年10月から、「明けて大正六年、その年も暮れようとする十二月九日・・・」との表現で一年以上も空白にしてある。草の日誌として、こういうことはありえない。その間の行動を公開するのをはばかって、石光真清本人か編者の石光真人が、わざと抜かしたのである。帰国の用件は分からない。

(落合氏解説)


●大正9年、周蔵氏、錦州に石光真清を訪ねる

帰リニ 先ニ訪ネテクレタ甘粕サンヲ憲兵隊ニ訪ネ
「石光サンノ居所 捜セルカ」ト聞ク。
「石光サンノコト 調ベハ可能ト思フノデ 今少シマッテホシヒ」ト云ワル。
「6日ニ家ヲ出タヒ」ト云フ。
「明日中ニハ分カルデアラフ」ト云ワル。
(中略)
甘粕の上司である憲兵指令官石光中将の兄を捜すのだから、何とかなるだろうと踏んだのである。
(中略)
5日昼過ギ甘粕サンガ キテ下サル。
「石光サンハ シベリアニ ヰッテヰタヤフダガ今ハ錦州ニヲラレルヤフダ。大分 苦労サレテヰルラシヒ ト云ッタ人モヰル」トノコト。
「ハッキリト 分ラナヒガ 情報トシテハ確カナモノダト思フ」ト云ハル。

(ニューリーダー 1999年1月号 掲載分より)


ところで、『石光真清の手記』の通りなら、周蔵が満州行きを命ぜられた時は、石光はまさに錦州で苦闘していた筈である。しかし、実際には上原参謀総長が「石光は今どこにいるか。シベリアではないか?」と自問自答するくらいで、一時シベリアに潜入していたことが窺がわれる。因みに、石光の親友若松安太郎(本名 堺安太郎)は、義兄の経営する島田商会の支配人としてニコライエフスクに駐在していたが、三月十三日、尼港事件が勃発するや、職員と家族ら二十数名を率いて包囲網から脱出し、シベリア鉄道で一路ベルリンに逃れる荒業を強行したという。(『大畑町史』に関連記載あり)

(落合氏解説)


5月末日
自分は 時間かかりすぎたのかどうかわからないが 5月21日 奉天に着く。
まず貴志さんに目的のものを渡すと即 錦州という所に 石光さんを訪ぬる。
石光と名のっておらるか菊池と名のっているか、あるいは別の名前であろうか。
貴志さんは親切に地元の人間を一人貸して下さる。

(「ニューリーダー」 1999年2月号 )


周蔵は「手記本紀」に、上のように記している。5月21日奉天着は、5月6日に東京を発ったにしては、いかにも日数がかかり過ぎる。奉天まではふつう5日ほどで着く。その指摘に先手を打って、こんなおかしな表現をしているのである。
実はこの時、周蔵はまず大連に立ち寄った。上原の別の密命を果たすためである。そのことを本紀に記載せず、例のごとく「別紙記載」としている。
自身の行動証明のために手記を披露せざるを得ない土壇場に際会しても、手記を小出しにすることで機密の全面的な漏洩を避けるよう、あらかじめ図っておくのは、諜者の心得であった。

(落合氏解説)


二十三日
石光さんに会える。
大分苦労されているらしい。去年からあれこれ大分事業をされては失敗をされているらしい。
業は起こして失敗するとなると、そこにどのくらいなりと損失が出るのは当然であるからどうやら大分苦しいらしい。
いろいろ話をするなかで阿久津さんとの製薬会社を作るまでのいきさつを話す。
すると石光さん それを利用さしてほしいと云わる。アヘンを薬品としてモルヒネ剤に製造する全てを教えてほしいと云わる。
自分と話していて即に製薬会社を作ろうと思われたようだ。
幸いにも満州は間もなくするとケシはいくらでも咲きはじめるらしい。
自分が教えるまでなく石光さんはよくよくご存知であった。

(「ニューリーダー」 1999年2月号 )


石光は『石光真清の手記』でいう。
「錦州に帰ってからは、身を削り心を砕く悪戦苦闘を続けた。排日運動が治まらないので、中国人と合併で化銅溝の鉛鉱採掘をやったり、馮国章将軍を担いで夾山銅鉱にも手をつけた。フェルト、絨毯の製造、北洋淑興漁業股分公司の設立。ついには錦州城外二里の二朗屯で鉄砲用火薬の製造まで始めた。これでも借金と不況に追いつ追われつの有り様であった」
まさにその通りの悪戦苦闘であったようだ。事業はやりかけて投げ出すと、損失が避けられず、次の事業はその借金を負って始めるから、ますます難しくなる。周蔵は一昨年、阿久津からモルフィン精製を共同経営しようと持ちかけられた時、ちょうど帰国中の石光が居合わせて「その機会を逃すな」と、アドバイスしてくれた。そのおかげで、阿久津製薬は至って順調に発展し、かなりの利益も得た。その話に及ぶと、石光は膝を叩き「うんそれだ。ひとつ、それを私に利用させてくれないか」という。

(落合氏解説)


云いにくいことではあるが、石光さんの役にたつかも知れないと思って東京を出るとき貯金を下ろして来た。もし使ってくださるなら、と云うと非常に緊張さる、又、快く感謝して下さる。一万円で十分と云わる。
アヘンのことは自分は上原閣下直属としてやっている。よってモルヒネまでの製造のことは石光さん自身の知識であったことにしてほしいと云う。
多分製造の知識など石光さん 教えるはとがめを受くることではないと思うが然し自分は閣下によってアヘンからモルヒネを製造するまでの段階を知ることになった。閣下からこの仕事を命じられることなくば自分はアヘンなど関わることのない人間である。そのこと考うるとき自分の知識は閣下の知識ということになる。
よって閣下の知識を無断で他言するは誤りであろうかと思う。
石光さん程の人物。自分から習うることなく そのくらいの知識あって当然であろう。
石光さんそのこと察知されたようだ。


(「ニューリーダー」 1999年2月号 )


事業の元手も多少は要るが、それは大丈夫か。石光の顔をわずかに曇るのを見た周蔵は、資金面の憂いと判断した。ここぞと思い、東京から携えてきた資金を持ち出した。出資金の三万円のほかにも、別に三万円ほど持ってきていた。
渡欧の時世話になり、スパイの基本を教えてくれた石光真清が、目下経済的に苦しんでいると聞いた周蔵は、起死回生策として、モルヒネ精製事業を勧めようと考えていた。石光が必要とする事業資金も用意してきたのである。あの豪胆な石光も、こと金の話となると、非常に緊張したが、快く受け取ってくれた。ただし、一万円でいいという。
上原大将のことが念頭にある周蔵は、石光に「モルヒネ精製の知識は自前で覚えたことにしてほしい」と頼んだ。上原の腹心石光にアヘンの製造知識を教えるのは、上原から咎められることではないと思ったが、細心な上原に対しては、無断で他人に知識を与えることは避けねばならぬ。阿久津製薬の設立の時にも、阿久津を上原のところに連れて行き、話を通したのである。石光ほどの人物だから、そのくらいは自得して当然であろう、といいながら、周蔵はポイントを教えた。
この後、石光は直ちにモルフィン精製業に乗り出した。その話は『石光真清の手記』にこう記されている。
「当時、中国ではアヘン喫煙の悪習があったのに、それを原料として製造するモルヒネ、コデイン、ヘロインなどの麻薬を高価に多量に輸入していたので、有力な軍属の一人であった張宗昌司令と協約して、阿片からの精製事業を経営し、製品は医薬品として公式ルートに乗せた・・・・」


(落合氏解説)


「金は借りる」と云はれるので「そんなことは無し 寄付します」という。
「願はくば 何か一筆書いてほしい」と頼む。「今は書くものも持たず まるでハン場暮らしであるが 書くものあれば書きましょう」と云わる。
自分は背嚢から墨と筆を出す。「丁度良い石があるからこれが硯になるでしょう」とのことにて自分の出したる紙に書いて下さる。
「何と書くのが希望ですか」と云わる。「満州を一言で書いて下さるかご自身を一言で書いて下さるか」と云うと 雪と書かれた。「満州はね雪 そしてその雪に埋もれて沈んだようにして自分は息をしている。小っぽけな自分が 雪に沈んでいるだけであるが それが死んでいるのではない。やがて何かの形で生きてくると信じているのです。」
その様子は恐ろしくくらいの気迫で身体の芯から愛国の心情が分かる。
つくづくと思うがこの人物は何事も一人でされる、弧の軍隊であると思う。心身供にくじること知らぬ強固な人物である。その容姿は決して荒くれではなく顔立ちもどちらかといえば 細面のやさしいつくりであろうが その瞳は意地の強い芯をかくしていない。


六月始めまで 石光さんの所にて過ごし奉天に戻る。それから毎日は驚くことばかりにて一ヶ月が十年にも思わる。

(「ニューリーダー」 1999年2月号 原文カタカナ)




生命身体の危機は顧みなくても、金銭の甲斐性はまた別なのだろう。金銭話に緊張する石光をみた周蔵は、融資だと心の負担を感じさせると思い、資金一万円は贈呈するから、その代わり揮毫してほしい、と願い出た。
ここは飯場同様の暮らしで筆も硯もないが、と石光は謙遜するが、周蔵は背嚢から筆墨と紙を出した。ありあわせの石で墨を擦って、石光は一気に筆を揮う。
「満州は一面の雪・・・・」
揮毫の題の説明を伺った周蔵は、そこに真の愛国の志士の心情を見た。周蔵もまた、石光のような志士たることができれば、と秘かに思う時代もあったが、なかなか叶うことではなかった。石光が書いた二枚の書は、今でも
吉薗明子が大事にしている。

(落合氏解説)




●石光真清の「告發ト云フ言葉」を思う

遠い昔のような気がするが、遠藤と名乗られた石光さんに、船の中で人生を聞かされたことを、懐かしく思い出す。
いろいろのこと 自分の中に残って やもたてもなくいられないこと ノートに書いておいた方が良いよ。告発しないでいられないということがあるかも知れない。軍人ではないから、告発するも、そう大した力もないから、握りつぶされるも わけのないことだから、せめて自分の中で 正確にしておいた方が良いよ。その友人の云うとおり書いておいた方が良い。
この時 告発という言葉が印象に残った。大勢の無知な国民の中の僅か一握りの人に知らせるために、告発しなければならない時はあると思う。軍人も政治家も自分たちほど苦しいことをしていない、と云われた。
自分はその当時 大したこともせずにいたから、その言葉を辱しく思って聞いたが、今はなつかしい。


(「ニューリーダー」2002年11月号 原文カタカナ)



いずれの国どんな社会でも、政治はきれいごとだけでは済まない。そこで裏作業が必要となるが、それに乗じて権力者が私利私欲を図ることが生ずる。政治家や軍人らの権力者は、自らは安全地帯にいて裏作業者にすべてのリスクを被せてしまう。そこで裏作業者は、いつか権力者を告発してやりたくなる。裏作業者にとって、告発だけが唯一の護身手段であり、それを担保するのは正確で詳細な事実の記録しかないのである。
周蔵は陸軍大臣だった上原勇作から草を命じられた時にも、また若くして逝った友人加藤邑からも「必ず日誌を点けておけ」と教えられていた。大正5年の渡欧の際に同行してくれた軍事探偵の石光真清予備陸軍少佐からも、そのことをこんこんと教えられた。上原からは、日誌は備忘のために必要だが、独自の暗号を使って他人に迷惑を掛けぬようにせよ、と注意された。加藤邑からは、感情はうつろいやすいから日誌を点けないと忘れてしまう、と解説された。これに対し石光はスパイのメモは告発の資料として多大の価値があることを教えたのである。
無論、石光自身も膨大なメモを残している。全部揃えば大変な史料価値が保証されているが、晩年に自身で大半を焼却したとされている。僅かに焼却を免れた残部を基に子息真人が編集した『石光真清の手記』が世上すこぶる好評を博し、ことに作家たちから絶賛されているが、内容を見るに、ひたすら「下級スパイの愚痴」めいたことばかり書き重ねている。これは明らかに肝心の事項を省いているもので、こんなものを訳知り顔で絶賛する作家諸氏の弱体な脳力は情けない。


(落合氏解説)



又、甘粕さんからも教えられた。
自分は正真正銘の軍人であるから、軍人として行うことは半分は軍の責任である。だから、名前を変える必要はない。然し、君は自分で自分を守るしかないから 名前は自分で自分を守るしかないから名前を貰った方が良いよ。君が万一失敗しても、その人物は武田内蔵丞であり、小山健一である。最終的には吉薗は助かる。又それは、上原さんの為でもあるのだ。今の自分は個人として話せるから、教えるけれど、あの人程用心深く、微々細心に注意する人は珍しい。
御自身でもことを行うときはその表の行事もくるられる。表の行事に目を向けさして 裏を見張っている。上原閣下ほど参謀部たる人も少ないと思ゆるとのことである。

(「ニューリーダー」2002年11月号 原文カタカナ)



甘粕が周蔵に教えたのは、別名を使用することの意義である。上原勇作に迷惑を掛けないためにも、別名が必要だと強調する。口ぶりからすると、この時に甘粕は上原の細心さを具体的に説明したようで、二重記載はその詳細だろう。私(落合)も、具体例を知っている。『周蔵手記』と『元帥上原勇作伝』と照合したら、上原が大森の別宅に寺内毅・前首相らを呼んで泰平組合の裏処理をしていた当日のことを、年譜には「この日、小金原に出張」としてあるのに唖然とした。思わず『周蔵手記』のほうを疑ったが、やがて本条に接するに及び、上原の周到さとそれを保持する執拗さに驚嘆した。日本陸軍を20年にわたって支配してきた上原勇作は、日本近代史第一の重要人物にもかかわらず、これまで史家の関心をひいたことがない。つねに「昼行灯」の影に座していたからである。しかし、細心な自己隠蔽もここまでくると、ナイーヴな後世の史家を誤らしめ、歴史研究を歪める遠因となる。

(落合氏解説)





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