アヘンで肺壊疽を克服する


● 二個師団増師問題後の上原勇作
一方、大博打に負け、首を抱えて九州に逃げてきた形の上原は、当初そのまま故山での隠棲を決意していたが、山県元帥や寺内大将から再び軍職に就くようにとの勧告に接し、にわかに心境一転を言い出し、自ら師団長の職を希望した。一月二十四日以来、三週間を過ごした指宿温泉を出て鹿児島に移る日、暴風雨の中を人力車で動いた上原は風邪を引く。その後、上原は都城で東京からの陸軍人事の連絡を待っていたが、二月中旬にその希望が容れられ、名古屋の第三師団長(三月一日付)と決まった。

このとき(大正二年四月)上原中将は、急病により大阪日赤病院に入院していた。『元帥上原勇作傳』中の「上原元帥年譜」によれば、ことの次第は次のようである。二月二十五日、都城を発った上原は、志布志より福島、飫肥を経て宮崎に出て、小林駅で汽車に乗ったが、下関辺りで発熱した。広島と姫路に陸軍病院はあるが、堪えつつ大阪まで来たとき、あまりの高熱に耐えかね下車した。旅館に入って陸軍病院長を呼びつけて診察させ、とりあえず日赤に入院した。京都帝大の中西亀太郎博士が来院して診察したが、病名すら判らない。
おりしも習志野陸軍歩兵学校に行幸されたとき、大正天皇から武官長に「
上原の病状はどうか」との御下問とともに「青山通胤博士が、有栖川宮の病状を診察するため、須磨の別邸に赴く。ついでに上原の病状をも診察させよ」とのお言葉があった。三月二十九日、下阪した帝大の青山医博の診察の結果、病名が肺壊疽であることが分かって、ようやく治療の途が開けたのである。

東京の宿(周蔵氏)のに上原の使いが来たのは四月十四日だった。大阪の日赤病院へ来いとの命を受けた周蔵たちは急遽大阪に向かった。日赤病院の廊下で一軍人(後で宇垣一成と知る)と擦れ違った周蔵は、その厳しい威風に思わず首をすくめた。病室に伺うと、上原は案外元気な顔を見せ、枕元を指しながら、かすれた声で笑った。
「俺(おい)には、此(こ)いが有いもすに、なかなか死ねもっさん」
それは小さな硝子瓶で、中に黒みを帯びた小さい丸薬が半分ほど入っていた。浅山丸といい、ギンヅル堤哲長から教わった秘薬だという。
「此ん薬は 三居の婆(ギンヅル)が作って 俺に呉れもした。高島どんからも、浅山丸を 呑むぢょるかと、やかましか 云われもす・・・」
このことが『元帥上原勇作傳』(625項)に記されているのには驚く。
「・・・又た高島鞆之助は、東京より西下して病院に来たり、元帥を見舞ふたが、玉木看護婦に対し『浅山丸を呑んでいるか』と問ひ、玉木が『一日十五粒である』と答ふるや、高島が『それでは足らぬ。一回に三十粒やれ』と命じたので、玉木は其の通り、一回三十粒を与えた。然るに、脈は良く浣腸注射もやめる位になったが、翌朝に至り、元帥の眼球に斑点が生じたので、再び減量したと云う珍談もあった・・・」
上原は片手で周蔵を招きよせ、耳元に口を近づけて小声で囁いた。
「三居の婆は いざちゅふ時は 此んケシ粉を使へ ちゅふておりもす。浅山丸より まっと 効くとんことで ごあんが」


そのとき病室で玉木婦長が入って来たが、構わずに上原が布団の下から取り出したのは一回り小さい瓶だった。細かい白い粉がほんのわずか底に溜まり、春の午後の日ざしを受けて、キラキラと光った。
「ぢゃどん 病院ちゅふんは こまんかこつを云ふ所ぢゃ。浅山丸はよかが 肝心の此んケシ粉は 使はしてくれもはん。俺は 此いを服みに 東京に戻りもす。二十日には 黙って此処を出もすに お前んは 千葉へ訪ね来て たもんせ。そんときは三居に ケシ粉をまっと無心してきて 欲しか」

後年『吉薗周蔵手記』昭和十二年の条に、この折のことに触れた記述がある。
「岡モ結局ハ肺病ニテ終ワル。然シ 閣下ハ風邪ヲコヂラセ、ヰカニモ肺患症状ニハ ナッタモノノ 日赤ヲアテニセズ ハズカノ アヘンヲ利用サレタルコト ヤク自慢 サレタ。
(注:岡とは岡市之助。上原陸相の次官で、後に陸相になった)

△人ニ云フテハ ヰカン。然シ 三居ノ婆サンガ ハヅカ五十本バカリ植ヘテ 蓄ヘテヲッタ粉ガ 命ヲ救ッタノデアル。婆サンノ事 好カン好カン ト云フガ アノ貧乏公家ノ 妾ニナッタバカリ カノ薬ガアッタノダカラ 何ガ幸カ 世ノ中分カラヌト云ハレタ。
△堤ナニガシハ 三居ヲ従ヘテ 漢方医ノマネ事ヲヤッテ ヲ内儀ヤ 子ノ口ニ 物ヲ運ンデヰタサフダ ト閣下カラ聞ク。
△三居ノ婆サンノ意地ハ 堤家ヲマカナッタト 云フ意地ガ カフヂタノデアラフカ」

浅山丸堤哲長が禁中出入りの薬師の娘から教わり、ギンヅルを助手にケシを栽培して製薬したアヘン入りの薬剤である。浅山丸はよく効き、戊辰戦争で京都に出てきた薩摩の将校たちは争って手に入れようとし、皆ギンヅルに低頭した。二十四歳で戊辰戦争に加わった高島鞆之助(1843〜1916)は薩摩隊の監軍を勤め、ギンヅルと隔てのない交際があり、浅山丸の愛用者の一人であった。京都から小林(注:九州)に戻ったギンヅルは、実家がくれた高畑から高千穂にかけての山林に、木場周助に命じてケシを栽培させ、それで浅山丸を作って旧知の薩摩軍人に届けていた。
ギンヅルは哲長伝来の種子を絶やさぬため、屋敷内に五十本ばかりケシを植え、採れた極少量のアヘンを救急用として上原勇作に渡しておいた。それが急場を救い、上原は自ら純粋アヘンの神効を立証したのである。純度が高いものは、体内残留物が少ないから副作用は乏しく、効果が著しいから耽溺せずに済み、服用者の意志が強固ならば習慣性に陥る心配はないというが、それでも日赤病院は服用を許さなかった。



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