藤田嗣治

エコール・ド・パリの寵児の真実


●ついにフランスから届いた暗号手紙


初めて千葉刑務所に面会に行った時に甘粕正彦から、「フランスから手紙がきたら持ってらっしゃい」と言われていましたが、ついにフランスから周蔵氏宛に手紙が届きました。
発信者の署名はネクル(NECKER)であるが、変名らしい。名刺が同封されており名刺は手製で「Foujita」と書かれていました。

大正14年3月20日過ぎ、周蔵氏はフランスのネケルなる人物から来た手紙を携えて朝一番で千葉刑務所の甘粕を訪ねます。封筒には右図にあるような一枚の「漫画」が添付してありました。これは誰が見ても判るように日本近代洋画画壇の三巨星として岸田劉生、佐伯祐三と並び称せられている藤田嗣治の自筆戯画です。つまり、この手紙は、在仏の画家藤田嗣治がネケルの名で送ってきた暗号通信でした。





藤田嗣治は明治19年生まれで、周蔵よりは8歳年上である。
父の嗣章は陸軍軍医の最高位に在り、大正元年、陸軍軍医総監(中将相当官)に昇り、3年には予備役に編入した。
嗣治は学業極めて優秀で、佐伯(祐三)の母校北野中学をも凌ぐ日本最高の秀才校と言われた東京高等師範付属中学を出たが、加えて画才があり、明治43年に美校西洋画科を卒業した。このように家筋と学業と才能が揃えば、佐伯祐三の場合と同じで、道は自ずから決まる。嗣治は、たぶん上原勇作によって、大谷光瑞師が佐伯祐三に用意したのと似た道を佐伯より10年ほど早くから進まされていたらしい。
美校卒業の3年後の大正2年、嗣治は画学留学生としてパリに渡り、同8年にはサロン・ドウトンヌに入選、10年に同審査員となり、エコール・ド・パリの寵児として脚光を浴びた。表ではいわゆる「パリの豚児たち」のリーダーとなり、裏では薩摩治郎八を自家薬籠中で躍らせていた。周蔵は、大正6年、渡欧の帰途にフランスに寄った時、「上原閣下も欧州に草を張っているのを見た」と手記に記す。周蔵はその時は会わなかったようだが、藤田もその一人であった。藤田が上原の草になったのは、出国の前であろうが、時期は上原が陸軍大臣の時代(明治45年)と見るべきではなかろうか。
甘粕正彦の「フランスの同志」とは、藤田嗣治のことであった。この二人は上原を仲介していずれ近づくべき運命にあったのだが、現実に知り合った時期は、大正8年頃の甘粕のフランス秘密留学の際と見るのが自然である。



●周蔵氏、藤田嗣治に会う

昭和3年、周蔵氏は上原勇作から渡欧して「秘密任務」を遂行するように指示を受けました。その任務の詳細は明らかではありませんが、日本の国益に関わる重要な任務だったようです。

周蔵は渡欧に先立って、満洲の奉天で予備陸軍中将貴志彌次郎と会い、幾つかの頼み事をした。貴志もまた上原元帥の秘密の配下で、今回の周蔵の渡欧行に関わっていた。シベリア鉄道に乗れば、前後して乗った筈の若松安太郎とはパリで会えるだろう、と考えていたら、何と同じ列車に乗り込んできた。貴志中将の手配であろうが、これには驚いた。しかし、周蔵は安太郎氏とは別行動をとり、昭和三年一月二十八日にパリに着き、一人で同志ネケル氏の家に行った。

その時、何より驚いたのはネケル氏の恰好であった。
幼女のようなオカッパ頭で、頭髪を目の上まで垂らし、揃えて剪下げていた。
周蔵は、初めて会った時、自分はネケル氏が誰かは知っていたが、出てきた人物が日本人とはとても思えなかった、と後に云う。
(「周蔵手記」昭和九年条)

周蔵は、パリに到着した当日、佐伯のアパートに行った。今回の渡仏の建前は、佐伯の陣中見舞いなのだから、それを真っ先に終わらせたかったのである。聞くに、薩摩治郎八は佐伯の面倒をよく見てくれているらしく、佐伯は令夫人の千代子ともつきあいがあるようだ。

当時パリで豪遊していた薩摩治郎八は藤田のパトロンとして有名ですが、実際には陸軍の上原勇作の命令で藤田の方が薩摩を監視し、コントロールしていました。

その夜のうちに藤田は、薩摩に舵を取らせて友人たちを紹介してくれる。藤田自身はスイス側との連絡があるため出席せず、治郎八に任せて、ジャン・コクトーなどと会食した。前もってコクトーのことは、藤田から説明を受けているが、所詮は誰一人信用するなと、のことである。
藤田が云うに、薩摩出身の画家もおり、これはなかなか只者ではないが、会わない方が良いだろう。周蔵は、自分もそう思う、と云った。薩摩(鹿児島)というからには「海」であろうから。すると藤田は、自分は関係ないと思って調べてはいないが、その画家は佐伯の妻君とは接触があるかも知れないということだ。しかし、自分は、役目以外には深入りしないようにしている。佐伯君のこと(ガス事故のことであろう)も耳にしているが、関わってはいない、とのことであった。

薩摩治郎八に関しては、馬鹿だ、と断言した。金のあるうちは利用してやろうとばかりに、舞台を作って踊らせるだけで、馬鹿を見抜かれているから大丈夫だ、と云われた。その主役がコクトーだ、と云う。コクトーなる人物は宗教の道の主頭(藤田はシュトウと云った)であり、只者ではないとのこと。なれど治郎八に対しては、ただの呑んだくれの詩人面を見せている。自分は信用したいと思うが、思うだけでその辺りは自分で判断してくれ、とのことであった。「日本と違って、毛色の違い(民族性)をどう計るか、難しい処であろう」と周蔵は感じた。
意外なことに、薩摩治郎八は夜が早い。千代子夫人は化粧が濃く、肌の地色が
見えなかった。治郎八はパーティに招かれたと云って消えてしまい、周蔵は、千代子夫人の通訳でコクトーから絵画の講義を受けた。そのあとは、千代子の愚痴を聞くことになる。あっけらかんとした婦人で、今は岡(鹿之助)なる学生に恋している、と云う。そういいながらも米子の悪口を言い敵対視するあたりと、佐伯の保護者のような言い分は、佐伯にも恋をしているようだ。このことを後日藤田に問うと、「それは恋に恋してるんだ。飾りものは、飾り窓の女も、一人の男の女も、飾りものには違いはない」と云う。まさにこの人物は冷静な人だと、周蔵は改めて思った。

周蔵はこれをきっかけにコクトーと親交を結ぶようになる。ジャン・コクトーは一八八九生まれで、周蔵より五歳年長、モーリス・グドゲとも友人であった。人名辞典には、詩人・小説家・演出家・劇作家・画家など多くの面で才能を突出させ、第一次世界大戦の前後に、ピカソ・アポリネールらと結び、前衛芸術運動を起こしたとあるが、コクトーの本質が秘密宗教「ブラックマリア」の総長であることを記したものは少ない。伝記・評伝のごときは大凡、愚民作りのためのものだからか。
吉薗家にコクトーからの仏文の手紙が遺されているが、暗号文なので真意が分からない。「周蔵手記」だけは歪めないで世に出したい、と思うが、ここから後の部分は、わが国事・国益に関係してくるから、なかなか苦労がある。

(落合氏解説)


薩摩治郎八は、周蔵をリッツなるホテルに三日間泊めてくれて、大いに幅が利くところを見せて貰った。翌日には早速、コクトーが講義した画家の絵を見せて貰いにスイスまで行こう、と決まり、二日後にはパリを発つことになった。それでも藤田は、コクトー氏を信用したいが、恐ろしいと云っていた。

夜九時過ぎから、周蔵は薩摩夫妻と藤田嗣治と愛人、それにネケル医師と食事をした。このネケルは、おそらく、本物のジョルジュ・ネケル医師であろう。藤田は周蔵に、「佐伯は嘘つきだ。女房が可哀想だから、男関係などは追及するな。
佐伯だって結構、男の格好を付けて、千代子さんに迫っているではないか。そこらへんはお互いだ」という。藤田はニヒルな男である。観察していると、酒を飲まないのに、充分酔っている。正確に言うと、酔うはずはないから、酔った振りをしているらしい。そして思い切り、はっきり物を云う。外人相手に得意そうにしゃべりまくり、同胞を煙に巻いている。

一寸、言葉の隅にポロリと出した本音があった。「俺は本当は酒は呑まない。日本の連中はみな貧しいから、食い物にも酒にも飢えてる。俺は時々食わしてやるのだ。だが、佐伯だけは来ないね。俺も薩摩さんや吉薗さんへの義理があるから、一回訪ねて行ったけど、結局あの男は俺の所に近づいては来なかったね」  それを藤田は、バックに吉薗がいるという安心感があるから、と指摘する。
「佐伯は、女房が男と寝て、絵のヒントを得て佐伯に指導するという案配さ」

周蔵は藤田に、今は何を云ってもムダだと思い、同時に米子の相手には藤田もいると思った。藤田はたぶん米子から佐伯のことを聞いているのだろう。食事の後、周蔵は千代子と話した。
「藤田さんの云われることは違う。佐伯さんは千代子に言い寄ったりはしない。それに奥様が、絵のことを指導しているという事実はない」と千代子はいう。現状は、佐伯はアンソールという画家の画風に傾いている。それには米子は大反対であるが、佐伯は米子を無視している。
現状佐伯は二種類の絵を描いている、と千代子は説明した。
アンソールのことを知ったのは、昨年十月二十日頃、佐伯の部屋でガス漏れ事故があった。この事故は事故であっても故意であっても、奥様の手で生じたことである。大使館員の調査に対して、米子は「アタクシの不注意です」と云った。「だから米子の責任である」との千代子の言に、薩摩が「それは間違いない」と同調した。
薩摩曰く、「その事故の時は、自分が病院と大使館を手配した。警察の介入を排除するためである。自分は、佐伯が来てすぐに住めるように、一部屋をクラマールの近くに用意してあった。それを佐伯が気に入らないので、建築中の建物を見せ、ここがいいと云うから、完成までホテル住まいをして貰った。
ガス事故の時は、佐伯はまだ二階のアトリエを使っていなかった。自分は遊び歩くことが多いから、その部屋に行くことは少ない。千代子は割合と通っているはず」と。「千代子が岡(鹿之助)なる画家と駆け落ちに失敗し、藤田や他の日本人を嫌悪しているところがあるので、佐伯の不器用は丁度良いかと理解している」と薩摩は云う。

岡はその後薩摩には近づかず、藤田に尻尾を振っている。そして、駆け落ち事件をすべて千代子の一人芝居であると宣伝し、おかげで千代子が変な立場になってしまったから、薩摩としては千代子を控えさせた、と説明した。
千代子は傍らで涙ぐんでいたが、周蔵に「オ兄サンハ 判ッテ下サルト思フカラ 話シマスケド」と、弁明を聞いて欲しいと云う。薩摩は笑って、「聞いてやってくれ」、といいながら、部屋を出ていった。千代子が、お互いに百通も恋文を出し合ったことなのに、私の片思いのように云われたと、岡の身勝手さを嘆くので、周蔵は、「異境に苦労する彼の気持ちを察して許してやれ、同時に大人の態度で対処してくれる薩摩の配慮も考えて見よ」と諭した。
千代子曰く、佐伯はある意味で狂気、米子も別の方向の狂気に進んでいる。薩摩は自らをよく知ったうえで、愉しんで狂っている。
藤田は狂気のふりをした凄く冷静な常識人である。千代子はこの異郷で薩摩共々自分が狂うことが恐ろしく、オカなる画学生にのめり込んだようだ。そのことから推すと、相手は大人しい品位を備えた人物であろう、またそれ故に、千代子を守り抜くことができなかったのであろう、と周蔵は判断した。



藤田嗣治の帰国と佐伯祐三の死因に関して

再び、「周蔵手記」の昭和四年九月条。

藤田氏帰国サル。張作霖死亡トナラバ、目的ノ思想変更ノ確認ガ第一ノ帰国理由デアラフ。
自分モカレカラノ方向ヲツカミ切レナヒタメ 甘粕サンニ会ヒニ行カフト思フト伝フル。
上原モ歳デアリ、軍部モ内輪モメノ傾向ガアルカラ、満州ノ現地ガ ダフ考ヘルカヲ耳ニシタラ 連絡ヲ来ルルヤフニ ト 云ハル。

幡ヶ谷ニ寄ラレ、薩摩ノコト聞ク。マヅハ 薩摩ニ文化事業ヲアテタコトハ、金ヲ使フニ最良ダッタトノコト。アンタハ資金援助シタラシヒガ、自分ハ絵ヲ描ヒタヨ、トノコトデアル。

藤田嗣治が久しぶりに帰国したのは、張作林爆殺後の日本陸軍の方向を確認しに来たのである。藤田嗣治がフランス人の妻ユキ(リュシー・バドゥ)を伴って神戸に入港したのは昭和四年九月二十八日。滞仏十七年にして始めての帰国であるが、帰国の目的を藤田自身は「老齢の父に会いたい」と言い(藤田嗣治『地を泳ぐ』)、ユキ夫人は「フランスでの莫大な課税を払うために日本で絵を売る目的」といっていた。(近藤史人著『藤田嗣治「異邦人の生涯」』
画家であるから絵も売りたいし、父の嗣章も陸軍軍医総監から大正3年に予備役編入しており老齢であるから、会いたくもあろう。
それもこれも帰国の理由であることに嘘はなかろうが、これは表帳簿で、藤田には画壇が知らない別の一面があった。すなわち上原付き陸軍特務である。関東軍による張作霖暗殺を聞いた藤田は、草の根としての自分の立場の根底が変化したことをおそれ、確認のために帰国したのである。帰国した夫妻は帝国ホテルに止宿するが、早速どこかで周蔵と落ち合った。軍部の動向を尋ねる藤田に、周蔵は「自分も今後の方向に迷うので、甘粕さんに会いに行こうと思う」と告げる。藤田は「上原さんも歳だし、軍も内輪もめの傾向があるから、あんたが満州へ行って、現地で関東軍の考えを耳にしたら、すぐに連絡をくれたまえ」と頼んだ。
周蔵が「甘粕サンニ会ヒニ行カフ」と考えた行先は朝鮮であろう、前の昭和3年12月末条には「甘粕サン日本ニ戻ラレヅ 朝鮮ニオチツカレル コトトナル」とあるし、後の昭和5年4月条には「満州ヘ発ツ。甘粕サン満州ニ移動サレタラシヒ」とあるから、この時点では、甘粕はいったん朝鮮に落ち着いたとされていた。したがって周蔵の意図は、甘粕訪問は朝鮮、関東軍の実情探索は満州ということであったろう。藤田が幡ヶ谷の周蔵宅を訪ねてきたのは10月初頭であろうか。自宅とあってゆっくり話しができる。周蔵は気掛かりだった薩摩治郎八のことを尋ねた。「とにかく薩摩にパリでの文化事業を押しつけたのは、資金を遣わせるのには最良であった。あんたは資金援助したらしいが、私は絵図を描いたんだよ」と藤田は答えた。「絵図」とは計略の意味である。

(落合氏解説)


△薩摩ニ対シテハ 逆ラフ方策ヲトルカラ、サノツモリデヰテクレ ト云ハル。
「ヲソラク 何カ云ッテ来ルダラフガ 尻尾ヲトラレナヒヤフニ」ト 云ハル。
何ニシテモ、自分ハ 徳田ガツカマッタコトデ 大分楽ニナッタコトヲ 打チ明ケル。多少ノ迷ヒガアルコト云フト「迷ッテモ 仕様ガナヒ。ヤリハヂメタコトダヨ」ト注意サル。
「何ガ良クテ何ガ悪ヒカハ 結論トシテ出ルモノデハナヒヨ。
時代ガ変ラフト、時ガ流レヤフト、出ル事デハナヒヨ。人間ハ馬鹿ダカラ、良ヒ悪ヒト答ヘヲ出サフトハスルガ 出ル訳ガナヒ」ト云ハル。 薩摩ハ バカダカラ 金ヲ使フコトニ意義ガアルノダカラ、アマリ細カクナラナクトモ、薩摩ニ対シテハ 大丈夫ダヨ。
藤田氏ガ 思ヒダシタヤフニ 薩摩カラ 日本ニ行クナラ 預ッタ佐伯ノ絵ハ ヤット乾ヒタカラ 折ヲ見テ送ルト 言ヅカッタ ト云ハル。


藤田は、薩摩治郎八に対しては今後はわざと逆らう方策を取るから、承知しておいてくれ、と言い出した。「その時はおそらくアンタに何か言ってくるだろうが、言質を取られないように」と周蔵は注意された。周蔵は「共産党の徳田球一がこの春一斉検挙で逮捕されたので、正直大分楽になった」と打ち明けた。「もっとも、親しく付き合ってきた間柄を考えると、多少の迷いがある」と言うと、藤田は、始めたことだから迷わぬようにと強く注意した。「事の善し悪しなぞ人間が判断できる訳がないから、迷うのは無益だ」と言うのである。また、「薩摩は金をばら蒔くだけに意義を感じているバカだから、薩摩に対しては神経質になる必要はない」と断定した。

(落合氏解説)


最後ニ 薩摩カラ資金援助ノ代物トシテ貰ッタ絵ヲ 見テ下サル。十七枚アルガ、
「フォー、全部俺ガ見タテタモノダ。アノ頃ハ 絵ヲ買フニ夢中ダッタカラ、良ヒモノヲ買ッタンダヨ。サフシテ 丸メテヲヒチャ ダメダカラ、木枠ニ張ラナケレバ」ト 三枚ホド 翌日ニ来ラレテ ヤッテ下サル。後ハ 熊谷サンニデモ 聞ヒテ 誰カニ頼ムカラト 自分ハ云フ。
目的ガ何デアルカノ 帰国ヲ知ッテヰルカラ、余計ナコトハ失礼ダ。
藤田氏カラ 作品ヲ一枚頂戴ス。自分ニトッテハ 薩摩ノダノ絵ヤリ 価値深ヒ。


会談場所の幡ヶ谷宅には、周蔵が薩摩から資金援助の代品としてもらった絵が十七枚あった。全部藤田に見てもらう。藤田は驚いて、これらは全部自分が見立てて、薩摩に買わせたものである。「当時の薩摩は絵を買うのに夢中だったから、良い物ばかり買ったんだよ。こんなに丸めておいては駄目で、木枠に張って保存しなくちゃいけない」と教え、翌日もやってきて、手本に三枚ばかりを木枠に張ってくれた。周蔵は恐縮して「後は熊谷さんに教わって誰かにやらせるから、もうそれで結構」と言った。藤田の帰国目的がわかっているから、余計なことに気を使わせては失礼だと思ったからである。藤田はこの時、自作の一枚を携えてきた。周蔵は、これは薩摩から受け取った名画のどれよりも自分にとっては価値がある、と感じた。周蔵はそれほど、この藤田嗣治という国士に傾倒していたのである。世の評伝家は、藤田の女装やオカッパ頭と軟派的奇行に幻惑されて、国士的なその本質をすっかり見落としている。

(落合氏解説)


「周蔵手記」続き
藤田氏は 読みにくいながら 読んでくれたが、佐伯のことは分からないと云われる。実の所 よくは知らないが 佐伯は親しくしている連中に憎まれたのではないかと思っている とのこと。
聞くところによると、佐伯は街頭に出ていること多く、いかにも絵を描いているかのようにカンバスを立てているのだが、実際その絵を見たと言う人間が少ない。
カンバスを立てているがその絵をのぞかしてくれた事は 郊外に写生に行った時一度だけであると佐伯の仲間の数人が云うのであるとのこと。荻須と云う男は真面目で自分は信用している。陰でめんどうも見ている。その他にも街頭でカンバスを立てているのを 中は見た事はないという。
然し、あの寒い冬の間も雪の中で街頭にいた。薩摩に聞いてみたが、雪の絵はないとのことだった。

(原文 カタカナ)

藤田は、読みにくい「救命院日誌」(佐伯が周蔵氏に記帳を依頼した文書)を読んでくれたが、「佐伯のことは結局分からない。実の処よく知らないが、佐伯は友人たちから憎まれたのではないか」と云う。藤田が言うには、「聞くところによると、佐伯は街頭に出ていることが多く、いかにも絵を描いているようにカンバスを立ててはいるのだが、実際その絵を見たという人はいない。カンバスを立ててはいるが、中の絵をのぞかしてくれた事は、郊外写生でたった一回あっただけだ、と仲間の数人が言っているそうだ。これを自分に伝えた荻須という男は真面目で、自分は信用しており、陰で面倒も見ている。あの寒い冬の間も、佐伯は雪の中を街頭で写生していたが、薩摩に聞くと、雪の絵はなかったとのことだった。

(落合氏解説)


「周蔵手記」続き

佐伯は仲間から 突然憎まれたらしい。理由は 丁度これだよ とのこと。
つまり佐伯は 何か毎日書いていた。それを見てしまった人間がいて、その内容のことで佐伯を憎んだようだ。
それで私刑になったのではないかと思う とのことである。

自分は妻君には話をきいていないが、仲間の連中からは聞いた。
部屋から逃げた と云うのは私刑をやりそこねて目を離したすきに逃げられたのではないかと思う。首にはひもで絞めたあとが残っていたらしいけれど そのことを口に出せないようだ。それぞれが云うことが違うのだ。口裏を合わせたのであろうが、それぞれ自分本位になるから違ったことを云うのであろう と思う。

(原文 カタカナ)



自分は、佐伯は薩摩と同じだと思っている。兄が大谷の手伝いをするのを見て、真似をしたかったのではないか。大谷がこの日誌を要らないというのは、意味がないからだ。佐伯は、仲間から突然憎まれた。理由は丁度これ(日誌)だよ。つまり、佐伯は毎日友人たちの行動を記帳していた。それを見てしまった人間がいて、そのことで佐伯を憎んだようだ。それで私刑にあったのではないかと思う。
当時差益の病室に出入りしていた「仲間」の名前は、坂本勝の評伝『佐伯祐三』に並べられている。当時の見張り役だった山口長男荻須高徳はもとより、二瓶等観林龍作川瀬川口軌外山田新一など十数名に及ぶ。

藤田の話は続く。「自分は米子からは聞いていないが、仲間の連中からは聞いた。部屋から逃げ出したというのは、私刑をやり損ねて、目を離したうちに逃げられたのではないか、と思う。首には紐で締めた痕が残っていたらしいけど、そのことを口に出せないようだ。仲間内で口裏を合わせたであろうが、それぞれ自己本位になるから、言うことが違ってくる。

当時パリには日本からの美術留学生が大勢いた。藤田は彼らを一種の文化開拓団と呼んでいる。佐伯祐三もむろんその一人である。その首領に擬せられているのが藤田嗣治で、薩摩治郎八もスポンサー格で彼らと交わっていた。評伝家は「パリの豚児の群」と名付けて解説するが、浅薄で洞察が足りず、彼らの思想信条の奥底に迫れないようだ。豚児たちを政治的無関心派と見做してしまえば思想面を追う必要はなかろうが、そんなことでは評伝の名に値するまい。はなはだしき例が藤田嗣治に関する評伝である。この国士をやや右寄りの軟派放蕩家くらいに考えるから後日あの戦争画を描いた心境が理解できず、いまだに評価を迷っている。田中穣に至っては戦争協力者と烙印を押して、故意に貶めてきた。
佐伯に関しても同じ伝で、坂本勝朝日晃も佐伯の心境を理解できず、椎名其二宮田重雄などの共産主義者が佐伯に親炙しようとした実情を追及していない。もっとも佐伯については元来複雑であるから、理解できないのも無理からぬことであろう。佐伯はもともと本願寺の諜者であったが、プロレタリア派に転向したとの報告が米子から入ったため第二次渡航の前に切った、と本願寺側は説明する。しかし、佐伯が本当にプロレタリア派だったのか、逆にノンポリだったのか。後に見るように藤田嗣治もわからないと白状し、周蔵さえ結局は理解できなかった。晩年の佐伯の周囲に蝟集していた豚児たち、すなわち荻須高徳山口長男川口軌外らは若者のことでもあり、当時のパリの思想的雰囲気に逆らわず、いっぱしのプロレタリア派を気取っていたのではないか。つまり、思想共同体的な気分で毎日顔を突き合わせていたのであろう(その中に陸海軍の諜者が混じるのは当然で、海軍筋は東郷青児、陸軍筋は山田新一がそれらしい)。画学生仲間は、佐伯が秘かに自分たちを探索していると知り、一時の赤軍派のごとき心情で、佐伯を総括してリンチに掛けたのであろう。

(落合氏解説)

「周蔵手記」続き

そこで問題は妻君だ。それは夫婦間が終わりそうだったのではないか と思うよ。佐伯は薩摩の妻君とは近かった。それは間違いないよ。それ故に薩摩は妻君のことを放したよ とのことである。
結局、薩摩の妻君は我儘になってしまったのだ。佐伯とつきあうも平然としている。関わればだれでもよい というふうだ。
薩摩はそれが文化であり、それが貴族だと思っている。妻君なんて飾りだからね。今となっちゃ マダム薩摩としては使い古したから勲章の役にも立たないだろうから、佐伯であろうと、誰であろうと暇つぶしだと思っているだろう。
といった内容を聞いた。佐伯は友人たちの行動をつけていたとのことである。それで私刑にあったということらしい。

(原文カタカナ)


そこで問題は妻の米子である。佐伯夫婦は破綻の危機に瀕していたのではないかと思う。佐伯は薩摩千代子とはことに親しかった。だから薩摩は妻を見放したのである。
結局、薩摩の放任策の結果、千代子はわがままになってしまい、佐伯と公然とベタベタしながら平気でいる。それも、近づいてくる男なら誰でもいい、という風である。薩摩はそれが貴族文化だと思っている。彼にとっては婦人など飾りに過ぎず、もうマダム薩摩も使い古して勲章ほどの役にも立たないから、佐伯だろうと誰だろうと、暇つぶしに付き合っておればそれでよい、と思っているらしい。
といった内容を、藤田から周蔵は聞く。結論は、佐伯は画学生達の行動を追跡しており、それでリンチに遭ったということらしい。

(落合氏解説)


「周蔵手記」続き

その話を聞いて 薩摩が手を廻すということはないか と聞くと 薩摩はそういう男ではないよ。薩摩はもっと紳士であるとのこと。
それに女に対してそんな執拗さはないとのこと。女との関係は 英語で云うならゲームのようなものだとのこと。
仲間だよとのことである。
きっと佐伯はこの記帳書のようにいろいろ書いていたのであろうか。

(原文カタカナ)



それなら妻に近づき過ぎた佐伯を薩摩が憎み、密かに手を廻したという可能性はないか、と周蔵は尋ねる。藤田は「薩摩は紳士だからそういう真似はしない。つまり、一人の女に対してそこまでの執念がないわけで、男女関係をゲームと観ている。だから妻のボーイフレンドも、敵ではなく仲間なのだ」と解説した。
周蔵は、画学生らを探索していた佐伯が、きっとこの『救命院日誌』のように何か色々書いていたのだろうか、と考える。ここに横線があるが、佐伯が「ヰロヰロ書ヒ」たことに関する「別紙記載」が存在するらしい。その内容は、画学生たちの行状か、それとも千代子と佐伯自身との関係なのか。

(落合氏解説)

「周蔵手記」続き

妻君は どういう立場を とったのであろうか。藤田氏は妻君は変な噂だけをよく聞いた とのことである。
それは日本におらる時も牧野さんの相手にはなっておったのであるし、聞く限りでは画家の仲間にも何人かいるとのことだ。妻君黙認したのであろうか。

(原文カタカナ)


ここで米子の話に戻る。米子はパリでも男関係の変な噂だけであった。日本でも牧野医師や佐伯の兄とも通じていたし、画家では里見勝蔵と荻須高徳とが目立つが、その他にもいた。自ら奔放な米子は、千代子にうつつを抜かす佐伯を黙認したようで、結局嫉妬感情で佐伯をあやめることはあるまい、と二人は結論したのである。

(落合氏解説)


薩摩が「クスリ、クスリ」と 云ってきたのは、藤田が伴ってきた女が モルヒネ中毒であったようだ。自分の所に直接来るわけにはいかないから、薩摩にカマをかけたとのことにて納得。

(原文カタカナ)

昭和8年10月頃、薩摩治郎八が「アヘンを友人のために入手したい」と頼みにきたことを記録したのは、『周蔵手記』昭和9年元旦「自分がパリに訪ねたとき」条である。その時、薩摩を警戒する周蔵は、自作の純質アヘンを分けることはせず、新興アヘン業者のX氏(落合氏伏字)を紹介してやった。
結局、そのアヘンは藤田嗣治の妻マドレーヌ・クルーが必要としていたのである。

(落合氏解説)

藤田 − モーリス・グドゲ なるユダヤと手を組んでおらる由。その人物に精神の相談を受けるように薩摩の妻君に指導をした由。別名をジョルジュ・ネケル と云っている由。
「この人物にかなり仕事をしてもらうつもり」とのこと。
藤田のすることに抜け目はないであろうから、自分は心配せず。「パリのことは任せておけ」と云わる。無論のことだ。自分に手の出せるもので あるはずがない。
任せるも 何もない。

(原文カタカナ)

昨年帰国した藤田嗣治から、周蔵は「フランスではモーリス・グドゲなるユダヤと手を組んでいる」と聞かされた。グドゲは精神科医で、フランスの著名女流作家で国葬にもなったガブリエル=シドニー・コレット(1873〜1954)の夫である。グドゲと手を組んだ藤田は、異国で結核を患う薩摩千代子に、グドゲの精神カウンセリングを受けるように助言した、と言う。グドゲは別名をジョルジュ・ネケルと称しているそうで、「パリでは、この人にどんどん仕事をしてもらうつもりだよ」と藤田は語った。本物のネケルは代々小児科医で、今も子孫がパリで病院を経営している。藤田が、自身のコード・ネームとして信用していたネケルの名をグドゲに与えたのは、中南米旅行のために留守にするパリにおける諜報活動を、同人に委譲したからであろう。

(落合氏解説)

一應、薩摩の主催する晩餐会に招かれたので、出席はせぬが挨拶に行き、遠目のつもりが、オノラを目の前で見たこと伝うる。
△「オノラは自分と薩摩が大物と思っているだけで、実際には使い走りでしかない」とのこと。「大きいことはできはしない」とのこと。
「しかしフランス人は悪知恵は働くから、油断は禁物だが」とのことであった。
藤田は自国であるにも関わらず薩摩に甘えて頼っているようにしているらしい。

(原文カタカナ)


日仏協会総裁にオノラを就けた薩摩治郎八は、オノラを日本に招待して日仏親善を図るため、トンボ帰りでパリに行き、オノラを伴って帰ってきた。東京では駿河台の薩摩旧邸を宿舎にあて、大いに歓待した。オノラ歓迎の晩餐会には周蔵も招待されたが、出席するつもりのない周蔵も、いちおうは挨拶に伺った。場所は、おそらく駿河台の宿舎だったのだろう。遠目にでもオノラを見てやろう、と思っていたが、思いがけず間近でその顔を見たことを、周蔵は藤田嗣治に伝えた。
藤田は「オノラなんて奴は、自分と薩摩だけが大物と思い込んでいるだけさね。実際には彼らの使い走りだよ」と言う。大きなことは何もできない、との意味である。その後、付け加えるように「もっとも、フランス人は悪知恵が働くから、油断しちゃいけないがね」と言った。藤田は母国に帰ってきたというのに、東京でも、薩摩に甘えて頼っているフリをしているようである。

(落合氏解説)

藤田は、祖国に戻ったにも関わらず、薩摩に甘えて頼るポーズを取っている。因みに藤田は、日本一の画廊、といっても画廊らしきものはそこしかないが、日動画廊で二月に展覧会を開いたという。周蔵は、どんなものか見たかったが、やはり近づかないに越したことは無いと思い、遠慮した。それが残念である。

因みに、藤田は二月に日本一の画廊で展覧会を開いた、と周蔵は聞いた。もっとも、日本一とは言うが、日本で画廊らしきものはその日動画廊しかないという。こんな場合周蔵は、藤田の絵がどんなものか、展覧会の雰囲気がどうなのか見たいと思うが、やはり用心して近づかないことにした。誰かに出くわして、二人の関係を覚られることを警戒したのであるが、親友藤田の晴れの行事なのに、これははなはだ残念である。

(落合氏解説)


△薩摩はオノラなる人物、先に日本を離れ、「満州を視察するため」とのこと。
藤田は「気にする必要なし」とのことなれど、気分は悪い。

薩摩治郎八に伴われて来日したオノラは、薩摩に送られて帰国する予定だが、薩摩より前に一人で日本を離れたのは、満州国の視察のためである。薩摩の自伝『セ・シボン』にも「私には私の考えがあるからオノラ氏が帰途朝鮮満州を巡遊する、その随行だけは御免蒙ると駄々をこねた」とあるように、薩摩があらかじめ広田弘毅外相に対し、オノラの満州行随行を断っていたのは、国際人として不愉快に思う満州国を目にしたくなかったのか、自分がオノラの腰巾着であることを関東軍に見せたくなかったのか。ともかく、満州にはオノラだけを行かせ、後で上海で合流することを決めてあった。フランス人の悪知恵を聞いていた周蔵は、オノラが満州で何を見聞し、それを秘密結社にどう報告するかなど、考えると気分が悪いが、藤田嗣治は「あんな奴、気にするな」と言う。

(落合氏解説)



●藤田の愛人の不審死始末

「周蔵手記」昭和十一年条。

藤田は、マドレーヌという女を連れて日本に帰っていた。昭和十年春ころ、何とか女をフランスに戻したが、嫉妬からまた日本に舞い戻った。藤田には後釜が出来ていたが、人の悪い奴がおって、マドレーヌにわざわざそれを説明したそうで、嫉妬も頂点となったのだろうが、さすがは藤田で見たくもなくなった女であるも、自宅に伴った由。「離れてくれない、だふしやふ」、藤田とも思えない情け無い様子であった。

藤田は荒木閣下との道は作らずにおるようだった。理由は分からない。宇垣の方を選んだのかも知れないと思うに、それ以上は知る由もない。自分よりかはるかに物を見、考える人物であり、また、佐伯などとは比較にならない鬼才の画家でもあるに、必要以上の事を云う訳にはいかないと思う。

そうするうちに、事故が起きた。モルヒネ中毒が進んでいたのか、マドレーヌが入浴中に死んだ。六月二十九日のことである。牧野医師が駆けつけた時は、もう手遅れであった。何しろ変死、しかも外人である。牧野は、布施一の処に行って善処を頼めという。布施さんにどういう力があるのかと聞くと、「行ッテ話セバ分ルヨ。特高ノ諜報部ダヨ」と云われ、周蔵は目を剥いた。

急いで布施の所に行き、すべて解決した。周蔵は、時に厄介と思ったこともあったが、乞われるままに、布施に金を貸しておいて良かったと、つくづく思った。藤田は一応、警察で調書を取られたが、担当官は一文字も書かなかったという。

藤田は昭和十一年十二月、新しい女と結婚した。大洗の辺の海の女で気が強く、藤田は周蔵に「丁度巻さんのやふだ」と説明した。その女性のためにも大金が必要だった藤田は、秋田の財閥平野某から借金をして面倒になったが、絵の方で解決した。
(「周蔵手記」昭和十二年条)

周蔵が薩摩のことを藤田に聞くと、薩摩は周蔵のことは何とも感じていないが、自分(藤田)のことは、名誉の敵と思っているようだ。マドレーヌに「藤田は日本で新しい女に夢中だ」と告げ口したのは、どうやら薩摩のようである。周蔵は疑問に思った。以前佐伯と千代子のことで「薩摩は紳士だ。汚い手を使わない」と云ったのは、他ならぬ藤田ではないか。それをマドレーヌにだけは使ったのか。
「それがどうも薩摩は、俺が睨んでおったよりか脳味噌が入っているらしい。つまり、オノラは薩摩の親類の唯一であるから、オノラを薩摩に預けておる訳だが、オノラがコクトーに云ったのであるから、間違いない。自分は、あの男の頭には、思考、脳味噌が入っていると思っていなかったから、真っ向から馬鹿にしていたのだが、そうでもなかったのだ。君をかなり騙しておる。あの男はね、日本では前田侯とつながっているんだ。君は薩摩の言いぐさだから、前田がフランスにおると思ったようだが、あれは薩摩の索だったんだよ。薩摩は、前田がフランスに居るように、君には話していただろう。 薩摩は前田に動かされているんだ。前田だけらしい。それで前田のことは煙にまこうとして、前田の名前を出しながら、違う事を云う」

藤田によれば、薩摩の云う前田の話は、みんなおかしいのだのことである。薩摩を見くびりすぎていたことの反省で用心深いが、周蔵はその通りには受け取らない。薩摩は自分が一番になりたいのだから、前田侯でも西園寺公でも、金で押さえて自分の下と見ていたいのだから、そう気にする必要はない、と考えた。

満洲に渡った甘粕正彦のことは、たとい表半分だけにせよ、世上によく知られているから、ここでは詳しく書かない。「周蔵手記」によると、甘粕は石原莞爾と結んで満洲事変を企てたが、一方では東条英機と手を組んでいて、石原の情報を東条に流していた。藤田嗣治は、上原の死後は荒木とは繋がらず、やがて海軍と結んで、独特の迫力ある戦争画を遺した。真の愛国者であった藤田は、戦後の日本社会と日本人、日本画壇ら一切に見切りを付けて日本を去り、カトリックに改宗し、レオナルド・フジタと改名し、フランスに帰化した。離日の際に横浜港にフジタを送ったのは、画家の鶴田吾郎と周蔵だけだったという。



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