甘粕事件




1.甘粕事件

甘粕事件とは、大正12年9月におきた関東大震災のどさくさに紛れて無政府主義者の大杉栄伊藤野枝、甥の橘宗一が憲兵大尉甘粕正彦に虐殺されたとされている事件で、高校の日本史の参考書にも出ています。

一般的には、「甘粕が軍の行った罪を被った」と言われていますが、具体的に誰の指示で行ったかは明確ではありません。しかし、「周蔵手記」では上原勇作の命令であった事が書かれており、その裏事情も書かれています。
10月大森の上原邸を訪れた周蔵は、大杉殺害事件について、初めて上原元帥の心中を伺った。単刀直入に
「甘粕さんはどうなりますか?」
と尋ねたら、元帥は、事も無げに即答した。
「心配なか。まず4,5年の辛抱であろうが、ワシの眼の黒いうちに、何とでもなりもす。子供まで殺ったと新聞は非難しておるが、人の口には戸はたてられぬ。言いたか奴には言わせるしかなか。しかし、いつの世でも、軍の行うことは同じである。どんな争いでも、終結段階においては、小さい生命をも奪うのは、定石である」
「とにかく、無政府主義はこれで終焉じゃ」
この言葉で、周蔵は甘粕大尉が誰の命令に従ったのか、はっきり覚った。これは避けることの許されない上官の命令なのだ。自分もいつかは何かしなければならない、と周蔵は自覚した。
(ニューリーダー 11月号より)


【事件の真相概要】 ・・・詳細は、下記の『2.事件に関する「周蔵手記」の記述』 参照

周蔵手記によると、大杉野枝の二人は、無政府主義を唱えながら実は、内務大臣後藤新平の「」であったとの事です。大杉の命令で野枝は青山学院の教会に潜入し、上原元帥の愛人の兄ポンピドー牧師を探っていました。
大正9年に甘粕は、密かにポンピドーと上原元帥の愛人の娘と一緒に渡仏していました。大正12年2月大杉は密航して渡仏しますが、その時も後藤新平に金をせびっています。渡仏の目的は、上原勇作ポンピドーらとの関係を探り、甘粕の秘密渡仏の足跡を探ることでした。目的を達成して帰国した大杉は、後藤にその内容を報告しました。このことにより、大杉、伊藤は大震災が無くても早晩、上原の意向で処分される立場にあったと落合氏は書いています。
ここで大震災は奇貨というべく、上原は戒厳司令部に命じて、大杉らを殺害させる一方、甘粕にその犯行を被らせた。甘粕は甘粕で大杉宅を捜索して、後藤との関連をしめす証拠を見つけ、後藤の上原に対する負い目を作ったとの事です。

後藤新平大杉栄の親密な関係は、ビギナーズ向けの「断影 大杉栄」 竹中労著にも下記の2点に関して書かれています。

1)大正5年杉山茂丸(「ドグラマグラ」の作者である夢野久作の父で政財界に隠密ルートを持ち孫文の辛亥革命を助けた怪人)の紹介で大杉栄は、後藤新平から300円を手に入れた。
2)大杉は、法華経をフランス語に翻訳するアルバイトを後藤新平から請け負っていた。

無政府主義者と内務大臣との上記のような関係は、尋常ではないと思われますが、それに関して深く言及したものがないのは不思議です。これまで、大杉虐殺に関して軍の関与は言われてきましたが、具体的な名前は挙がっていませんでした。周蔵手記が上原勇作の関与を指摘している事は重要だと思います。戒厳令の出された9月1日だけ帝都治安の最高責任者として石光真臣がまかされた事も重要です。(9月2日からは、福田雅太郎大将が関東戒厳令官となる)これまで紹介してきたように周蔵手記では、甘粕正彦石光真臣真清兄弟は上原勇作の股肱であった事を明らかにしています。

以上まとめますと、大杉栄殺害に陸軍が関わってきたことは確かですが、今まで言われてきたような単純な「無政府主義者に対する弾圧」ではなく、上原勇作、甘粕正彦周辺を調査していた大杉栄(後藤新平の意向)に対する上原・甘粕の私怨が絡んでいたと言う事です。


2.事件に関する「周蔵手記」の記述

昭和4年の暮、吉薗周蔵王希天渡辺政雄藤根大庭らと上高田救命院に会して、後藤新平の内情を聞いた。後藤が甘粕大尉にゆさぶられることとなった経緯を藤根は語った。

『周蔵手記』「別紙記載 上高田日誌」 社会勉強条 続き

藤根さんの説明である。
藤根さんは、後藤新平から聞くと共に、野枝を使うは大杉にて、大杉は本来 後藤直接にというかおせぬために藤根さんがその間にたのまるることとなったようだ。

(ニューリーダー 2003年8月号より:原文はカタカナ)

後藤の死んだ今だから、と藤根は後藤の内情を明かした。藤根は、大杉栄伊藤野枝をスパイとして使っていたことを後藤から聞いていた。本来、大杉を後藤と直接合わさないようにとの目的で、藤根が二人の間の中継を頼まれていたのである。
明治末期から大正初期にかけて政権を交互に担当したのは桂太郎と西園寺公望であったが、その後の大正時代の政治家といえば、原敬、その一歳下の上原勇作、さらに一歳下の後藤新平の三人こそ三巨頭であろう。このうち首相になったのは原敬だけだが、他の二人も大隈重信や寺内正毅らの首相経験者より存在感は遥かに重い。後藤は同郷水沢出身の請負師藤根大庭に裏の仕事を頼むことがあり、藤根は上原元帥の裏仕事をする一方で、それも受けていた。

(落合氏解説)

『周蔵手記』「別紙記載 上高田日誌」 社会勉強条 続き

青山学院教会 正統派(メザチスト教会)
ポンピドー神父
この神父の妹との間に閣下の子供
その子供と甘粕さんの愛人関係

(ニューリーダー 2003年8月号より:原文はカタカナ)


周蔵はキリスト教メソヂスト派青山学院教会の牧師ポンピドー一家と上原元帥、甘粕大尉との関係を教わる。教えたのは神田の中華メソヂスト教会をポンピドーから引き継いで代理牧師となった中華民国留学生王希天である。周蔵はキリスト教の知識がないため神父と記してしるが、メソヂスト派では牧師と呼ぶらしい。

(落合氏解説)

『周蔵手記』「別紙記載 上高田日誌」 社会勉強条 続き

教会にもぐり込んだるは、野枝
大杉栄、伊藤野枝は共産党ではあるが後藤新平の草だった由
同席の藤根さんも認むる
ところが、大杉はその根がさもしく、さもしい故に後藤に直接会いに行ったらしい。何度か借金に行った模様。(*それは自分には納得できる。自分の見たる大杉も、まことにさもしい表情をしておった。)
であるに、当然のことながら大杉は閣下の事も甘粕の事もゆすったであろう。
となれば大杉を、ああまで始末したるは閣下の命もあろうが、なるほど甘粕さんの意向もあろう。
正し、後藤もそうであろう。同様の意はあるであろう。

(ニューリーダー 2003年8月号より:原文はカタカナ)

今日革新系評論家らが英雄視して囃す大杉栄であるが、その実は根性の賎しい男であった。大杉が渡仏前に後藤邸を訪問して300円ほどを得たことは周知で、評伝家はそのことを何とか美化しようとするが、実情からは遠い。本来は、後藤と大杉が無関係と見せるために藤根を介在させ、報告はむろんのこと、報酬についても藤根が両者の間に入って受け渡しする取り決めであった。ところが心根がさもしい大杉は、後藤に直接面会を求めた。もちろんタカリが目的で、中継者の藤根を外して、人の好い後藤から直接大金をせしめようとしたものである。それも一度だけではなかった。
周蔵も上京直後、上原の命令で社会主義者の行動探索の途中、大杉と荒畑寒村が宣伝文書をこさえている現場を目撃したが、こちらをちらりと見た時の大杉の、怯えた小動物のような目つきを一生忘れなかった。(吉薗家伝承)
そのような大杉だから、後藤の指図で集めた資料を用いて、上原元帥だけでなく甘粕大尉をもゆすろうとしたらしい。
となれば、あんな極端なことまでして大杉を始末したのは、上原の命令もあろうが、甘粕本人の意向が強かったのではないかもっとも、そう考えるならば、後藤も大杉と同じ立場である以上、同じ意味で始末されたのかも知れない。

(落合氏解説)




このHPに関する感想はメールでお願いします。

上原に戻る

Mainページに戻る

(Since 2000/06/03)